※情報を随時追加しております。 [ 最終更新 2007-10-09 ]
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| 眼鏡橋 |
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眼鏡橋 ( 重要文化財・高城町 )
諌早のシンボルとして人々に親しまれているこの橋は、水面に秀麗な姿を映す二連アー チ式の階段式石橋である。
文化7年(1810年)、本明川の大洪水がおこり、橋はすべて流失し人々は舟か飛び石を利用して川を渡っていた。ところが幕府の巡検使(じゅんけんし)が訪れることになり、橋がないのは諌早の面目にかかわるとして架橋が協議され、永久に流れない立派な橋をということになり、諌早家第12代領主茂洪(しげひろ)をはじめ領民一同の力を結集して眼鏡橋を造り上げた。
天保9年(1838年)2月に着工し、翌10年8月に完成、以降、大水害にも流されない堅固な橋として先人たちの願いは達せられた。
昭和9年(1934年)の県案内によると、当時から指定文化財へ推す声はあったが、これが 具体化したのは終戦後のことであった。昭和31年(1956年)4月6日に県指定の文化財と なり、その後国指定に向けての申請作業中に、 昭和32年7月25日の諌早大水害に遭った。その後河川改修に伴い、石橋としては国の重要文化財第1号として昭和33年11月 29日に指定されるとともに解体され、現在の場所に移築、 復元された。長さ45m、幅 5m、高さ6m。(諫早市の概要より)
現在、もとの眼鏡橋の場所には「新眼鏡橋」として歩道橋が架けられており、毎年7月25日の川まつりの前の1週間、夜間にイルミネーションで装飾されている。 |
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<諫早市政概要> |
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| 城山暖地性樹叢 |
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城山暖地性樹叢(しろやまだんちせいじゅそう;天然記念物・高城町)
諌早公園のある丘陵全体を覆っている樹叢は数十種からなり、ミサオノキ、クスノキ、ハマセンダン、オガタマノキ、ホルトノキ、ヤマモガシなどの巨樹が生育し、特にヒゼンマユミは明治39年に千葉常三郎が発見し、大正2年牧野富太郎が学会で発表した。分布範 囲は鹿児島、大分、福岡、山口、韓国に極限されている。ニシキギ科に属する常緑樹でミカンに似た葉をもち、四稜形の黄熟した果実をつけ、果皮が裂けて赤い種子を見せる。学術的に重要な樹叢である。 |
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<諫早市政概要> |
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| 多良岳ツクシシャクナゲ群叢 |
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多良岳ツクシシャクナゲ群叢(天然記念物・高来町)
ツクシシャクナゲはツツジ科の常緑小高木で、葉は長さ15cmほどの長円形の厚い皮質で、裏面に茶色の綿毛が密生、花は「ろうと」の形をし、枝先に十数個集まって咲く。花は淡紅色で4月末に咲く。指定地は多良岳自然公園の中心、小松尾公園である。 |
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| 小長井のオガタマノキ |
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小長井のオガタマノキ(天然記念物・小長井町 )
モクレン科の常緑樹。高さ20m、根元近くの幹廻りが9m余りあり、オガタマノキでは日本一の巨樹である。2〜3月にモクレンに似た小形で芳香のある紅紫色を帯びた白色花をつける。 |
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| 女夫木の大スギ |
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女夫木の大スギ(天然記念物・小川町)
高さ約32m、目通り幹廻り9m。昭和27年に県の天然記念物に指定されたが、国内でも樹齢・大きさ・樹形・保存の状況が優れているとして国の天然記念物に指定された。昔は2本の大スギがあり、そのため「女夫木」の地名が生れたと言われている。国の天然記念物に指定されているスギは約40本であるが、このスギの大きさは中位くらいと言われている。県内では最も大きいものである。 |
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<諫早市政概要> |
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| 明珍作うこん威甲冑一領 |
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明珍作うこん威甲冑一領 (みょうちんさく うこんおどし かっちゅう;工芸晶・城見町)
代々諌早家の家宝として伝来されたもので、「菊唐草透赤銅金物鬱金威」(きくからくさ すかし あかがねかなもの うこん おどし)の甲冑である。兜は鉄三十間阿古陀(あこだ)形筋鉢(すじばち)で、前立(まえだて)は水晶球に黄金造りの観音菩薩を挿入している。頬当ては鉄打出し烏天狗(からすてんぐ)形である。胴は二枚胴で、火炎光背付の不動明王像を高肉彫りに打出している。裾板、草摺(くさずり)にも龍文を打出しており、金具工芸の技術などに江戸期の趣向をよく示している秀逸な作品である。
諌早家初代龍造寺家晴が豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に着用したものと伝えられている。
(諫早市城見町、慶巌寺所蔵) |
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<諫早市政概要> |
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| 和銅寺の十一面観世音菩薩立像 |
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和銅寺の十一面観世音菩薩立像 ( 彫刻・高来町 )
クス材を使用した一木造りで、50年に一度しか開帳されない秘仏である。室町時代の彫像で引き締まった容貌や美しい素木仕上げは、県下の十一面観世音像の代表作の一つで ある。行基菩薩が肥後の橋を7つに切り、これを海に流し、流れ着いた先々で、作った「行基七観音」のーつと言われる。 |
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| 大雄寺の十一面観世音菩薩坐像 |
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大雄寺の十一面観世音菩薩坐像 (彫刻・富川町 )
高さ32pの坐像で、眉間に白毫(びゃくごう)をはめ、端麗な仏像で室町期の様式をよく示している。
この仏像の縁起は初代竜造寺家晴が豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に拝具したものと言われ、代々諫早家の守り本尊として高城の頂上に安置してあったものを、元文5年(1740年)に第八代茂行が富川を聖地として堂を建立して安置したと言われている。 |
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<諫早市政概要> |
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| 西郷の板碑 |
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西郷の板碑 (にしごうのいたび 有形民俗文化財・西郷町 )
板碑は、供養塔のーつとして鎌倉時代から 南北朝時代にかけて、主に関東地方を中心に多く建立されたものである。建久元年 (1190年) に祀られたもので、高さ2m、幅1.28mと大きな部類に属し、諌早地方特有の硬質の砂岩板状石を用いている。碑面上位に胎蔵界大日如来(だいにちにょらい)を示す梵字を、下位左右に毘沙門天(びしゃもんてん)と不動明王を示す梵字をそれぞれ陰刻している。遠く鎌倉文化と諫早地方を支配した船越氏らとの文化交流のあとが伺える資料である。 |
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<諫早市政概要> |
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| 慶巌寺の名号石 |
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慶巌寺の名号石(みょうごうせき;有形民俗文化財・城見町)
「南無阿弥陀仏」の名号を正面に薬研(やげん)彫りしている。
右意趣者為法界衆生平等利益也 一結 敬白
辛
貞和七年 四月十三日
卯
と陰刻し、下方に27〜8名の名を刻んでいる。
貞和7年(1351年)は観応2年に当たる。足利直冬(ただふゆ)は観応の年号は使わなかったとされ、直冬の勢力下もしくは支持勢力がこの地にあったことを示している。 |
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<諫早市政概要> |
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| 諌早神社のクス群 |
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諌早神社のクス群 ( 天然記念物・宇都町 )
四面宮(「しめんのみや」として古くから人々に親しまれてきた神社で、境内の樹木のうち6本が指定を受けている。拝殿前のクスが特に巨大でご神木として崇拝されている。目通り幹廻り7.8m、高さ25mほどで、ほかの5本は幹廻り4〜7m、高さ30mほどである。江戸時代までは荘厳寺が共に祀られていたが、明治の神仏分離令により荘厳寺が廃され、仁王門は慶巌寺へ、阿弥陀三尊立像は安勝寺へ移された。 |
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| 川頭遺跡 |
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川頭遺跡(こうがしら:史跡・湯野尾町)
多良山塊中腹の標高360mの高所に立地する。昭和49年に発掘調査が行われ、縄文時代 早期末から前期及び中期の遺跡として注目された。縄文時代早期末から前期の遺構は、直径4mの円形に配置された柱跡3群でこれは住居跡と思われる。中期の遺構は土壙(どこう)3基確認され、底からは阿高式(あたかしき)土器が副葬され土壌墓と考えられる。この時期の住居跡・土壙墓の検出例は九州でもわずかであり、貴重な遺跡として高く評価されている。 |
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| 諌早家墓所 |
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諌早家墓所(史跡・西小路町)
天祐寺境内にあり、諌早領主歴代の墓18基、正・側室や子息の墓25基、家臣の墓30基、一族の墓4基、雑塔56基、石碑5基、六地蔵石幢4基、石室2基、住職の墓42基、石灯籠177基、弥勒四十九院形式の石柵27基がある。墓石は異形五輪塔とも称すべきもので、火輪の四隅が突出し宝篋印塔(ほうきょういんとう)との折衷的様相の形をしている。領主の墓碑を囲む石柵は弥勒四十九院造り(みろくしじゅうくいんづくり)と呼ばれる珍しい形式である。幕藩時代の墓地形式をよく留めた好例である。 |
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<諫早市政概要> |
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| 富川のカツラ |
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富川のカツラ(とみがわのかつら) 県指定の天然記念物 風光明媚な富川渓谷は標高約300m、冬季には里が雨の時は富川は雪といわれるほど寒さが厳しいところである。 大雄寺から徒歩で約10分、川沿いに自生するカツラの木は、根回り8〜9m、高さ約10mと県下最大級のもので、幹は根元から多数の幹が分かれており、地元では「千本木」と呼び親しんでいる。 カツラは、北日本系の代表的な落葉高木で、白樺などとともに繁茂しているが、県内では多良山中に稀に自生しているのみである。 また、この場所は寛延3年(1750年)に発生した諫早一揆の前年、一揆の原因となった第8代茂行公不調法の際、連座した家臣横田杢左右衛門が自刃した地とも伝えられている。 |
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<諫早市政概要、諫早市の文化財> |
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| 大雄寺の五百羅漢 |
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大雄寺の五百羅漢(史跡・富川町)
元禄12年(1699)、本明川が大洪水を起こし、死者487名を出した。翌13年は逆に大干ばつで田畑は荒廃し、領民の疲労・困窮は極限に達した。このことに心痛した第7代領主茂晴(しげはる)は、水源の地、富川渓谷の岸壁に、領内の息災と天下の太平を祈願し、また水難者の供養のために五百羅漢を刻んだと伝えられる。竣工は宝永6年(1709)で、500体の羅漢像と3体の如来像が刻まれている。長崎、大村、島原などの寄進を受け、浄財によって工事を行なった。川縁の自然石に176人の寄進者名と
仏師 神代村 常春寺僧 志元
石工 矢上村 鎌山甚兵衛
同 田結村 森与四衛門 同氏軍平等
敬彫刻
五百大阿羅漢
宝永六己丑二月春彼岸日
と刻んである。 |
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<諫早市政概要> |
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| 熊野神社(津水)の植物群 |
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熊野神社の植物群(くまのじんじゃのしょくぶつぐん) 暖地性の天然樹叢であり、熊野神社境内の約630uが対象地区である。ブナ科のシイ、カシ、クス科のヤブニッケイ、シロダモ、カゴノキ等の約50種類の植物が群落をなしていて、郷土の木の大部分をここでみることができる。とりわけブナ科のスダジイの高齢樹の樹容は一般にも見られない貴重なものである。また樹陰にはシロミマンリョウが自生しており、このほか10数種類のシダ類を見ることができる。樹叢の中には、樹齢200〜300年ぐらいと推定されるものもある。 |
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<諫早市の文化財(市教委)> |
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| 御手水観音の磨崖仏群 |
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御手水観音の磨崖仏群(おちょうずかんのんのまがいぶつぐん) 御手水観音は、古くから観音霊場として知られ、近隣からの参詣者が多く、夏は涼をとる人も多い。参道左手に磨崖仏があり、49躰を数えることができるが、はっきりした縁起などは未だ十分に解明されていない。仏の表情は柔和で線刻のものが多く、技術的には富川の五百羅漢と同じ系統とみることができる。下村孫右衛門、向井半助、富田源蔵などの刻名があり、中には相撲取衆とあるのをみると寄進者と思われる。この磨崖仏群は江戸時代を中心に長年月をかけて彫り込まれたものと考えられる。 |
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<諫早市の文化財(市教委)> |
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| 善納岩陰 |
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善納岩陰(ぜんのういわかげ) 人類が岩陰や洞穴で生活するようになったのは、古く旧石器時代より始まる。県内では、福井洞窟や泉福寺洞穴が有名である。諫早地方で発見されたものは善納岩陰が初例で、湯野尾川の近くにあり、岩陰の奥行は約2.8m、間口は約15mある。奥行はより深かったものと推定されるが、上部の石が剥落して狭くなったと解される。出土品の代表的なものは、押型文土器で近くの川頭(こうがしら)遺跡の出土品と類似している。現在、この場所には聖徳太子をまつった大師堂がある。 |
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<諫早市の文化財(市教委)> |
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| 諫早公園 |
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諫早公園(いさはやこうえん)
市街地の中心にある緑豊かな場所で、戦国時代に築かれた高城跡を公園としたもの。全山が、国指定天然記念物「諫早市城山暖地性樹叢」に覆われている。山頂には樹齢600年の大クスがそびえ、山腹のつつじは大正時代に市民のボランティアで植えられ、毎年春には花見客で賑わう。中腹に郷土出身の詩人伊東静雄の詩碑がある。
(→諫早人物伝:伊東静雄 →名所旧跡編:眼鏡橋)
写真は上段の大クスと下段の眼鏡橋付近のつつじまつりの風景。 |
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<諫早観光協会ガイドマップ> |
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| 諫早市郷土館 |
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諫早市郷土館(いさはやしきょうどかん) 西小路町 昭和56年、諫早家の旧邸宅。多くの歴史民族資料を展示。江戸時代の農機具類、諫早藩に関連する資料や道具類、また、現川(うつつがわ)焼の所蔵品など。2階には、昭和32年(1957年)7月25日の諫早大水害の記録写真が多数展示されている。 |
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<観光協会他> |
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| 半造の底井樋 |
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半造の底井樋(はんぞうのそこいび)
諫早の底井樋廻水 諫早地方では江戸時代から干拓が進められており、干拓地には多量のかんがい用水が必要であった。江戸後期の1813年(文化10年)諫早藩士・青木弥惣右衛門は小野島干拓地のかんがい用水の開発を計画し、水源を現在の諫早公園の高城下の山下渕に求めた。この水は今もおおかた残っている用水路に沿って、八百分の一の勾配で小野島へ導かれたが、途中で半造川と交わるため、用水は逆サイホンの原理で半造川の底を通り小野島新田に送られた。工法は厚さ10センチ、幅70センチの松材に切り込みを作って長い1枚板とし、これを4枚組み合わせ、外側は四角な木枠で止めて箱樋を作り干潮時に川底に据えた。このV型の逆サイホン水路が底井樋廻水と呼ばれ、この用水のおかげで小野島新田は良質の米が穫れる水田として開けた。 <長崎県大百科事典より>
(→人物伝:青木弥惣右衛門)
半造川底井樋廻水(はんぞうがわ そこいびかいすい)
栗面橋から半造川(上流は埋津川)の左岸の土手を走って、本明川合流地点から本明川右岸の土手を上り、親和銀行諫早支店裏に至るサイクリングロードが輪内田井原を一周しています。この道が半造川を過ぎて200メートルほどの所に川内町底井樋があります。さらに700メートルほど下がったクリーンセンター近くに、小野島底井樋があります。新蔵屋敷川が真っ直ぐ東進してきますが、この水路が半造川に突き当たったところです。底井樋とは半造川の底に樋管を渡して、輪内田井原の水路の水を落とし、川内町側の水路に上げる仕掛けのことで、水が自然の力で流れるように、逆サイフォン方式を採り入れたものです。もちろんその上は船が通れなければなりません。
この底井樋が出来たのが、今から190年ほど前の文化十年(1813)です。その頃小野島地先の干拓がどんどん進み、用水不足に陥っていました。今までの灌漑は、金比羅岳の麓に幾つもため池を造っていたのですが、それだけでは事足りなくなり、米が作れない上に、せっかく干拓をしても塩抜きもままなりません。ところが半造川の土手から輪内側を見ると、満々と水が有り余っています。山下渕から引っ張った、たった一本の水路が城下を巡らし、その東の田井原全体を潤してなお有り余っていたわけです。「その余り水をもらいたい」と、この年の四月、与力田崎孫右衛門、技術者青木弥惣右衛門の計画を元に小野島の百姓たちが願い出ました。
領主もこれを許し、銭150貫の経費と必要な竹木を与えてこれを支援しました。青木弥惣右衛門は小野島在住の家臣ですが、今までため池の築造や修理などを手掛けてきた土木技術者です。当初役人たちは一遍下がった水がどうやって上がってくるのかと半信半疑でしたが、弥惣右衛門の最初の設計指図書には「測量機がなくとも、例え東方(川内町側)の地面少々高くとも噴水するはず」と自信満々です。この工事は現在の技術者でも簡単にはいかないそうで、水の流量と樋管の径とを正確に計算した上でないと水は上がってこないといいます。弥惣右衛門がいかに優れた技術者であったかがわかります。御沙汰書に「身命抛ち、自費を貢ぎ」とありますように、数々の困難はありましたが、突貫工事が無事成功して、その年の田植えが出来ています。これによって数百町歩の干拓地の米作が可能になったと言います。小野島の氏神天満宮の正面に、これら功労者一同の立派な「頌徳碑」が建てられ、その徳を称えています。
戦後木製底井樋の老朽化に伴い、新しいコンクリートの樋管に作り替えられました。さらに現在は国土交通省の防災工事で、半造川の川幅が倍に拡幅されています。底井樋の名も「蔵屋敷川伏越」となっています。
<諫早を歩く>より |
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| 天祐寺の六地蔵 |
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天祐寺の六地蔵(てんゆうじのろくじぞう) 諫早市指定文化財 六地蔵石幢(せきとう)、六面幢、燈籠式六地蔵などといわれている。特徴は石を六面にけずり、各々の面に地蔵を浮き彫りにしている。この型は佐賀県、長崎県、熊本県の北部に多くこのため佐賀型と 呼ばれている。 天文10年(1541年)の建立で、諫早地方を西郷(さいごう)氏が支配したころのものであり、龍造寺家の諫早入封以前の石造物として貴重なものである。 |
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<諫早市の文化財(市教委)> |
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| 伊東静雄 |
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伊東静雄(いとうしずお) 詩人 1906〜1953) 昭和4年京都帝国大学文学部卒業後、雑誌「呂」「コギト」「日本浪漫派」などに詩作品を発表し、同10年10月処女詩集「わがひとに與ふる哀歌」をコギト社より発行し詩壇の注目を浴びる。他に「夏花:同15年」「春のいそぎ:同18年」「反響:同22年」。没後1年を経て、諫早文化協会によって諫早公園中腹に詩碑が建立され、毎年3月には詩人の高雅なる詩風と孤高の詩精神を追慕し「菜の花忌」が開催される。詩碑は詩人三好達治撰・揮毫により、詩編の1節「手にふるる野花は それをつみ 花とみづからを さゝへつゝ 歩みをはこべ」(第2詩集「夏花」所収:「そんなに凝視めるな」)が記されている。 |
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<諫早観光協会ガイドマップ他> |
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| 野呂邦暢 |
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野呂邦暢(のろくにのぶ) 作家 1937〜1980 昭和20年、11歳のとき長崎から疎開した野呂邦暢は諫早をこよなく愛し、諫早を舞台に数々の名作を残した。昭和48年に発表した「草のつるぎ」で第70回芥川賞を受賞したあとも諫早を離れず、「諫早菖蒲日記」「落城記」など郷土にかかわる作品を発表したが、昭和55年5月42歳の若さで急逝した。上山公園の文学碑の前で、毎年5月「菖蒲忌」が開催される。 |
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| 若杉春后 |
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若杉春后(わかすぎしゅんご)1678〜1750
江戸時代中期の寛延3(1750)年、諫早領内では、佐賀本藩の圧力に抗議して百姓騒動(諫早一揆とも言う)が発生し、その時の指導者が若杉春后である。彼は元諫早領主に仕えた儒学者で、隠居高齢の身ながら義憤に燃え、本藩の4千石没収の不当を訴えて諫早領民1万数千人を決起させた。鎮圧後捕らえられ佐賀刑場の露と消えた。享年73歳。
騒動の原因となった4千石は、17年後諫早に返還され、春后らの念願が果たされたことになり、後の世に諫早の義人と称せられている。(諫早史談会:碑文より)
諫早一揆は、佐賀藩のお家騒動に諫早領主関与したとして茂行が謹慎蟄居、所領4千石減地の処分を受けたため、かねて本藩の圧政に憤激していた諫早領民が春后を中心として立ち上がったもの。春后は自ら起草した百姓名の訴状と諫早家の旧記を添えて、大阪・日田の代官所と長崎奉行所に越訴し諫早領主の養護と旧領保全を策した。一揆は周到細密に計画され1万余の領民は敢然と本藩に立ち向かったが結局鎮圧され、春后は首謀者として磔の刑に処された。(長崎県大百科事典:長崎新聞社より)
墓所は、西小路町天祐寺南側の丘の上にあり、高城神社境内本堂左手には若杉霊神(わかすぎれいじん)が祀られている。また、天祐寺の山門左手には、諫早義挙殉難者之霊碑がある。
→「名所旧跡編」 若杉霊神(わかすぎれいじん)
→「諫早の歴史編」 諫早一揆(いさはやいっき)と若杉春后(わかすぎしゅんご) |
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<碑文、長崎県大百科事典他改> |
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| 山崎教清 |
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山崎教清(やまさきのりきよ) 生没年不詳 戦国時代末期、伊佐早(現諫早)西郷純堯(さいごうすみたか)の家臣であった。1587年(天正15年)秀吉の島津攻めのとき、従軍しなかった純堯に諫言したが受け入れられず多良山中に隠遁していた。秀吉の命を受けた龍造寺家晴が西郷氏を追放して諫早の領主となってから、教清を家臣にとの要請を「二君に仕えず」と固持し、そのかわり干拓事業の推進を願い出て許された。家晴は75人の家臣をつけて工事に当たらせたという。教清は現川内町地先の干拓に着手し幾多の苦難を乗り越えて完成。県内第一の穀倉地帯の基を築き、近世干拓の祖と仰がれるに至る。威徳を偲び、川内町に「天正年間山崎教清位河内町村開祖」と刻んだ石碑が建立され、今も毎年2月15日に祭典を開いている。 |
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<諫早市の文化財、長崎県大百科事典他> |
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| 青木弥惣右衛門 |
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青木弥惣右衛門(あおきやそううえもん) 生没年不詳 現小野島町に在郷した藩士。19世紀初頭、ため池の築造修理、用水路の掘削など干拓地の用水確保に努力を続けた。当時、干拓は著しく進展したが、用水不足のため米作ができない新開地が多かった。彼は城山下の本明川(山下渕)から取水し延々7kmの水路を計画したが、途中舟が出入りする半造川を横切る。そこを独特のサイホン式工法で見事に1813年(文化10年)完成させた。いわゆる半造の底井樋(そこいび)である。藩役人その他多くが危惧し反対する中で、全私財を投じての苦しい工事であった。(→半造の底井樋) |
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| 土橋貞恵 |
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土橋貞恵(つちはしていけい) 多助、永春、知足庵
出 生 安永五年
死 亡 慶応元年五月九日(九十二才)
出生地 諫早市、長田
履歴地 多良金泉寺、佐賀、長崎、北高森山村杉谷
業 績 医業で公益事業に私財を投じた。
諫早の人物中、他に誇るに足るものの一人で、三才の頃父を失い、五才で母を亡くし、赤貧洗うような中にあっても、よく兄の真作と艱苦に堪えながら成長した。始め、多良の金泉寺につかえて読み書きを学び、十五才の時佐賀に出て、諫早屋敷の下僕となる。二年の後、長崎に出て、吉松道碩の門に入って医術を学んだが、その間刻苦勉励すること十六年、文化五年三十二才にして技大いに進み、業終え、郷に帰り、地を森山に卜して開業した。翁は身を奉ずること甚だ倹で、美衣を求めず、又下女下男を置かず、蓄財に努め、業に励むこと尋常ではなかった。若し貧家より治療を乞う者があると、右に薬ろうを提げ、左には施米を携え、懇ろに医術を施すという慈悲深い人であった。それで資産は日に増し、月に殖え、開業二三十年の後には、富豪に加えられるに至った。尚私財を好古館に贈り、又道路の改修、橋梁の架設、溜池築造等をして大いに公益を広めた。晩年薙髪して知足庵と称して仏門に入り、追福のため、各寺院に田地を寄附した。万延元年に至り、領主は彼の徳行を嘉みして貞恵の号を贈り、その行儀碑を建てて顕彰した。
明治十四年頃、翁の美徳を広く学童にも知らせようとして、行儀碑を諫早小学校に移し、福田渭水頌徳碑と並べ建て、毎年春秋二回の祭典を行っている。
<いさはや人物伝より>
土橋貞恵(つちはしていけい)1776〜1865
幼名を多助(たすけ)といい、徳行により貞恵の号を賜る。貞恵翁または多助ぼっさんとして親しまれる。
長田村に生まれ、少年時代の過程の貧困と不幸にもめげず、青年期の長い不遇にも耐え、苦学して長崎で蘭方医学を学び、32歳の時に森山町杉谷で開業したが、成功してもおごることなく倹約を守り、ひたすら世のため人のために尽くし、生涯を通じて「医は仁術なり」を実践した。施米や寄付、寄進などを続け、後年は自費で土木事業を行うなど数々の功績を残した。頌徳碑ははじめ正林下(現金谷町)に建てられたが、明治14(1881)年、諫早小学校校庭(今の市役所前庭)に移され顕彰されている。
<諫早近代史より>
また、旧森山町では毎年5月9日の命日の日に「土橋貞恵翁祭」を小学校で開催し、旧町内の小中学生らによってその遺徳が讃えられている。
※写真と地図は諫早市役所前庭の頌徳碑
→福田渭水(ふくだ いすい)
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<諫早近代史他改> |
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| 野口弥太郎 |
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野口弥太郎(のぐちやたろう) 1899〜1976 洋画家
諫早を描いた名作「諫早の眼鏡橋」は昭和32年(1957年)の大水害の翌年に、諫早公園に移設される直前の眼鏡橋を描いています。数点が描かれ、老舗の店中や市役所、市体育館の緞帳に鑑賞することができる。他には晩年に市民センターに制作した大壁画「いさはや」、市に所蔵されている作品では「雲仙」や日本芸術院賞を受賞した「那智の滝」の連作60号がある。(観光協会より)
諫早出身で、独立美術協会会員。日本芸術院会員。大正11年(1922年)二科展に「女の顔」初入選。野口一刀流と呼ばれる自由闊達な筆触とシックな色調で現代洋画に新世界を開いた。1980年長崎県展に野口弥太郎賞が新設。(長崎県大百科事典より) |
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| 島原の乱戦没者追悼碑 |
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島原の乱戦没者追悼碑(しまばらのらんせんぼつしゃついとうひ:天祐寺)
寛永14(1637)年島原の乱がおこり、諫早茂敬(第三代)は手勢をひきいて出陣した。戦いは激烈を極め、諫早勢も多くの犠牲者を出した。乱鎮圧後、三十三回忌の寛文12(1672)年に諫早では改めて、犠牲者の霊を祀るためこの追悼碑を建立したものである。
この追悼碑は石造り三段の基壇の上に、高さ2.45m、幅0.96mの石碑を載せ、総高3.37mとなっている。そしてこの碑には激戦を物語る碑文と戦没した武士67名、又者14名、百姓11名、計92名の氏名が刻み込まれている。島原の乱の史料として貴重である |
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<諫早市の文化財(市教委)> |
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| 愛宕山の肥前鳥居 |
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愛宕山の肥前鳥居(あたごやまのひぜんとりい)
愛宕山には、中世期西郷弾正少弼(さいごうだんじょうしょうひつ)が信心をはげまし、武運長久を祈願して京都の愛宕権現の分社として創建した愛宕社があり、霊験の高い神霊として、江戸時代末頃まで名所・霊場として知られていた。
肥前鳥居は佐賀県を中心に、福岡・長崎などの一部に分布するのもので、木鼻が流線的に延びていること、笠木と島木が一体化していること、笠木・貫・柱が三本継ぎになっていることなどの特徴をもつもので、本市ではあまり見受けられない。
額束は木檗三筆の一人と称される即非(1616〜71)の揮毫で
雪峯頭陀即非書
愛宕山
諫早豊前守藤原茂真立
と記され、17世紀中頃に建てられたものと推される。
なお、諫早豊前守藤原茂真は、諫早四代目の領主で承応元年から寛文12(1652〜72)年まで襲職した。 |
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<諫早市の文化財(市教委)> |
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| 慶巌寺の磨崖仏三十三観音 |
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慶巌寺の磨崖仏三十三観音(けいがんじのまがいぶつさんじゅうさんかんのん)
慶巌寺南端の第三紀砂岩の岩はだに、西を起点として33体の菩薩像が整然と彫刻されている。
彫刻にあたっては光背型にえぐり込み、中に菩薩像を半高肉彫りで陽刻する。法量は高さ40センチ、幅25〜30センチほどを測る。その右下には高さ25〜29センチ、幅7〜10センチほどの長方形の彫り込み部を設け「西国三十三所八番」というように番号を陰刻している。
造像は丁寧であり、仕上げも良好である。
造立の縁起については、今一つ明確ではないが、「観音経」に説くように、観音菩薩が33に変化し衆生を救済するという三十三観音思想と、庶民の救いを求める願望が合致して成立したものと思われる。
西国三十三観音は、畿内を中心にしてその周辺一帯に散在する三十三カ所の観音霊場をさす。古くは京都周辺の貴族,富豪の巡拝が主であったが、江戸時代に入ると関東・東北地方にまで巡排塔が存在することから、かなり普遍的に庶民層まで行きわたった風習と思われる。そして、西国巡礼をより簡単に済ます目的、あるいは巡礼供養の目的から各地に三十三カ所観音を造像するようになったとされる。本例もこのような推移のもとに作られたと考えられる。 |
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<諫早市の文化財(市教委)> |
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| 久山の磨崖仏三十三観音 |
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久山の磨崖仏三十三観音(くやまのまがいぶつさんじゅうさんかんのん)
南面する第三紀砂岩に彫刻する。光背型にえぐり込み、像容を陽刻する手法は慶巌寺に同じであるが、仕上げは若干稚拙である。
(西国三十三カ所観音の推移については「慶巌寺の磨崖仏三十三観音」の項参照)本例で注目されるのは、巡礼の世話方が施主として記銘されていることである。村内十数名の巡礼の折は、その世話方を決めて行う風習を表しているものと考えられ、観音信仰が広く行きわたったことを示唆している。また、巡礼が一つのレジャー的な要素をも加味していたことは、その人数をして知らしめていると言えよう。 |
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<諫早市の文化財(市教委)> |
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| 天祐寺 |
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天祐寺(てんゆうじ) 「坤松山(こんしょうざん)」 曹洞宗 西小路町
本尊仏は釈迦牟尼如来で、その創建は室町時代の末期大永年間ごろ(1521〜1527)といわれ、開基は「天祐宗貴居士」(西郷純堯(さいごうすみたか)の祖父、西郷石見守尚善(いわみのかみひさよし)、寺名もその諡号(しごう;死後に送られる称号)より出たとされている。
その後、天正15(1587)年に龍造寺家晴が豊臣秀吉の命をうけて西郷純堯を討ち、伊佐早城に入り初代藩主となると、天祐寺に73石の寺領を寄進した。
二代直孝(なおのり)のとき天祐寺を菩提寺と定めたが、この時から龍造寺が佐賀藩に属し、領主の姓も地名も「諫早」と改められた。初代龍造寺家晴より第十八代、諫早家興に至る歴代領主並びに奥方・子女等の例を祀る由緒ある寺院である。
境内には本堂はもとよりその他にも山門とその中に安置されている仁王尊、山門に向かって左手高所にある五輪塔、島原の乱戦没者追悼碑、諫早家墓所、天文10(1541)年建立の六地蔵等、貴重なものが多数残されている。
正面に堂々と聳える山門は、慶巖寺の山門と共に江戸時代に建立された諫早における代表的楼門建築で、山門建立の棟上げが宝永5(1708)年4月21日に行われていることは諫早日記によって明らかだが、その完成がいつであるかは今のところ判明していない。
この山門には諫早第11代茂図(しげつぐ)の揮毫になる掲額が金文字で「坤松山」と書かれており、天保6(1835)年7月1日に仁王尊(金剛力士像)(右側の口を開いた像が金剛、左側の閉じている像が力士)が安置された。
次に、三重の台座上に軸石を組合せ、屋根石も5枚から成っている五輪の宝塔は、その銘からして法華教経典一字一石塔で、諫早第四代領主茂真が寛文5(1665)年佐賀藩主初代勝茂(泰成院)の霊を祀るために建立され、当初は現在諫早高校の御所院南方の竹林の中にあったものを天祐寺の境内に移築したものである。(→島原の乱戦没者追悼碑 →諫早家墓所 →天祐寺の六地蔵) |
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<郷土館解説シート> |
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| 慶巌寺 |
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慶巖寺(けいがんじ)
諫早市城見町15−19。浄土宗、九品院常楽山慶巖寺。開山の際、蓮社九誉上人礫道が文禄年中(1592〜1596年)博多から諫早に招かれ、慶巖寺屋敷(本諫早駅付近)に創建した常楽寺が前身。第二代諫早直孝(なおのり)の室・慶巖院浩誉慶巖大姉の発願によって慶長10(1605)年、現在の岩小屋の地に移し慶巖寺と改めた。
江戸芝の増上寺末寺に属し、肥前の国の浄土宗僧侶養成道場の位をもち、多くの人材を送り出している。第四代の住職に玄恕(げんにょ)という筑紫琴で有名な僧がいた。「六段の調べ」を創作した城秀(じょうしゅう;後の八橋検校)は若いころ、この寺を訪れ玄恕に師事したといわれる。山門は明治初期の廃仏毀釈によって荘厳寺から移築したものである。第一代龍造寺家晴が朝鮮出兵の際着用したという明珍作うこん威甲冑一領は昭和39(1964)年3月県指定文化財に指定され、庫裡に保存されている。また境内に貞和7(1351)年の名号石(みょうごうせき)があり1981年3月県文化財に指定。(→慶巖寺の名号石 →明珍作うこん威甲冑) |
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<長崎県大百科事典> |
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| 木秀古墳 |
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木秀古墳(きしゅうこふん)
木秀の光正寺から更に400mほど南下すると、路傍に巨大な板状石を建てた石室が認められる。大正14年京都大学の浜田耕作博士によって調査がなされたという。市史によれば「この古墳は円墳、石郭は高さ8尺、幅13尺の平滑な自然石を組合せ、其上に盛土してある。出土器は勾玉(瑪瑙)、管玉、小玉、金環、直刀、馬具、刀剣金具、祝部式土器。」と記している。南方に開口する横穴式石室で古墳時代後期の7世紀代の所産である。また、すぐ北側には大部分破壊された横穴式石室の腰石のみが側溝及び道路の下に遺存している。(諫早市の文化財より)
土地の古老の話では、子供の頃に石の屋根の下をくぐって遊んだ記憶があるという。 →大和朝廷との結びつき(やまとちょうていとのむすびつき) |
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<諫早市の文化財(市教委)> |
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| 高城神社 |
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高城神社(たかしろじんじゃ)
高城神社は、はじめ諫早公園と市役所の中間(高城公園)に建っていたが、昭和32年の諫早大水害で大破したため諫早公園の現在地に移築された。
神社の祭神は、諫早家初代竜造寺家晴公で、明治15(1882)年の創建。この神社には相殿として竜造寺家晴公が創立された祭神菅原道真公の天満宮も祀られている。これは水害後に天満町から移され、合祀されたものである。
公園頂上に建つ高城明神は、諫早12代茂洪(しげひろ)公が諫早家開祖竜造寺家晴公を祀るため天保13(1842)年に建てた祠である。
幕末までは例年高城頂上で祭祀を行っていたが、明治になって諫早の各村々の人達が話し合って神社を建てようということになり、諫早家お屋敷隣の本明川沿いに建立された。高城明神があるのに新しく神社を建てたので、本明川沿いの高城神社は「新宮さん」と呼ばれるようになった。
境内には大鳥居のほか、大灯籠、狛犬、お手水所の少女のような石作りの人物像がある。以前は、対岸の正林下から神社側の岸まで将棋の駒の形をした飛び石が並んだ風景が見られたが、昭和32年の諫早大水害で壊滅してしまい、本明川拡幅改修で神社敷地も狭くなるため、諫早公園の一角に移設復元されたのが現在の高城神社である。 |
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<郷土館解説シート> |
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| 肥前国名の起源 |
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肥前国名の起源
肥前風土記の編纂年代は奈良時代を下るまいと言われているが明確でない。元明天皇の和銅6年(713)5月に畿内7道に勅して国々の物産、地味、地名の起源や国々に伝わる口碑を記録して進奉したのが諸国の風土記である。肥前風土記も常陸風土記につぐ古い郷土記録である。
※肥前風土記抜粋(読み下し文)
肥前の国は、本、肥後の国と合わせて一国と為す。昔は、しきのみずかきの宮にあめのしたしろめす、すめらみこと(磯城瑞籬宮御宇御間城天皇=崇神天皇のこと)のみよ、肥の国のみちのしり益城の郡、朝来名の峰に土蜘蛛打猴頸猨二人あり。徒衆180余人をひきいておおみことにさかいてまつろいあえず。みかどのりごちたまいて、君等がおや(祖)健緒組をやりて伐たせたまふ。茲に健緒組勅をうけたまはりて悉く之をつみなふ。兼ねてくぬち(國裏)を巡りてありさまをみる。八代の郡白髪の山に到て日晩れ峯に止れり。其夜おほぞらに火ありおのづからもえやゝ下りて此山につく。かがり火の如し。時に健緒組見て驚き怪しみて、みかどのまゐりてまをさく「臣辱くもおほみことをかうむり遠く西の戎をつみなふ。刀の刃を霑さずあだども自ら滅びぬ。みいづにあらずしていかでかしかる事を得てむ」。又かがり火を擧がるさまをまをせり。天皇のりごちたまはく「まをせる事を未だきこえぬ事なり火之下れる國なれば火の國といふべし」。即ち健緒組が勳をあげてかばねを賜つて火の君健緒純(?)といふ。やがて此の國を治めしむ。火に因りて火の國といふ。後に兩國に分れて前後となれり。又「まきむく日代の宮にあめのしたしろしめす大たらし彦のすめらみこと」くまそおをつみなひ筑紫の國にいでます時、葦北の火流の浦に船ひらきして火の國にいてます。海を渡るほどに日くれぬ。夜冥くしてつく所を知らず。火の光ありて遙かに行く先を見る。天皇棹人にのりごちてのたまはく、直ちに火の処を指せとのたまへり。勅のまにまに往くに遂に崖に著く事を得ぬ、天皇詔を下したまわく「何といふ邑ぞ」と、國人まをさくことは火の國八代郡の火なり。但し火の主を知らず。時に天皇まへづきみにのらし玉はく今此のかがり火は是人の火にあらず、火の國と号る所以は其のしかるゆえをしれりとの玉へり。
<諫早市史 第1巻より(抜粋、改)> |
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| 島原大変と諫早 |
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島原大変の時の地震の記録が「諫早日記」の中に記録されています。地震は三月一日「昼のち雨降夜ニ入六半時比(ごろ)より地震数十度続夜也」と記され、それから三月十六日まで連続して発生したことがわかります。その後七月二十日の大地震の発生をもって地震の記録は終わっています。
三月一日、諫早地方に大地震が起こり、寺社の石塔、石灯籠や所々の石垣が破損、古町の石橋梁は二つ折れ目ができたので、梁の上は桁を引き、それに数本の木を渡し、その上に板石を乗せて木柱を立て、危なくないようにしました。
諫早会所では希代の凶変について諫早領と島原藩の御境目を堅固にするため、唐比、森山の心遣いとして土井勇右衛門と末次恰に主従二人、鑓持ち一人をそれぞれつけて派遣し、この両人に対して勘弁の心を持つ取り計らい、助力を求める者に対しては憐憫をもって接し、粗忽無慈悲な対応等がないように、森山村唐比村中に告げ知らせるように指示しています。
三月十五日、諫早から島原藩主へのお見舞いとして、早田嘉左衛門を派遣しました。三月二十八日、島原からの返礼の使者、星野小十郎が諫早に来ました。
三月一日の激震頻発から一ヶ月経って、一見沈静化の兆しが見えたかと思われていたところ、四月一日(1792年5月21日)の夜八時過ぎ、激震が突如二回発生。直後に天を突くほどの大音響が響き渡りました。響きは対岸の肥後にも伝わり、やがて津波が三回押し寄せ、第二波は最大で波高は約十メートルにも達しました。津波は有明海沿岸に甚大な被害をもたらし、後年まで世にいう「島原大変、肥後迷惑」です。
この時の様子を「諫早日記」は「昨夜五ツ比(午後七時から九時)山汐津浪出来候にて東目筋海辺の人家田畑破損に及び候」と記録しています。諫早領では竹崎(佐賀県太良町)が大汐(津波)で甚大な被害を蒙り、本倒家拾一軒その外残らず半倒れになり、男女三人死亡(大汐による溺死)。竹崎御番所も崩壊しました。
四月朔夜(一日夜)の津浪による罹災者に対して、諫早領主は翌二日、米、握り飯を支給しました。御番所新築の銭や米、小麦わら、縄等の建築資材も支給しています。
四月五日、神代郡方役の伊東杢左衛門から諫早会所の中嶋九左衛門に書状が届きました。それは、「島原大変で神代へ避難して来た人のうちに、病人、けが人が多いので、外科の医師を神代まで送って頂きたい。至って急場の事であるから延引などないよう即時に三里走りにして、佐賀の諫早領主に達し、急速の間に合うよう取り計らってもらいたい。」というものでした。しかも、追伸に「急病人の事であるから一刻も早くと頼まれているので、独身(単身)でもよいから早く夜分でも手配を頼む。」というものでした。
四月六日、佐賀で雇った外科医田中悦蔵、内科医原田忠益に手男二人、鑓持ち一人、挟箱一人、合羽加こ一人、茶箱一人、駕籠四人を両医にそれぞれ人数と長刀持ちまでつけて旅籠銭百目宛を支給しました。
神代から諫早に避難して来るというので、神代へ警固を派遣することになり、勝良五郎次と毎熊要右衛門の両人で少しの部下を付けました。
四月六日から九日まで、世上不穏ゆえ、御私領中安全の為、荘厳寺、金泉寺、平井坊へ諫早領主から祈祷を言いつけています。(以下略)
<諫早市談より> |
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| 伊能忠敬と諫早 |
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伊能忠敬と諫早
文化年間における徳川幕府の一大文化事業として、伊能忠敬の日本全国実測地図の製作があった。この大事業は伊能という良材を得て、始めて出来たことであり、その成果は世界に誇るべきものであった。全国にわたっての実測であるから、もちろん諫早にも来たわけであるが、当時の諫早湾ないし大村湾、千々石湾等にわたる測量模様の詳記した記録を求めることができなかったのが残念である。忠敬の第一次九州測量は文化六(1809)年で、東海を岸から始め、薩隅を経て西海を廻り、熊本、天草を終わって大分に出て、一応江戸に引き上げ、第二次九州測量は文化八年(1811)十一月二十五日に江戸を発し、一路九州に下ったのであった。この時の一行は総人員十九名からなり、幹部氏名の記録されているのは次の通りである。
手 伝 坂部貞兵衛 下 役 永井甚左衛門
今泉又兵衛直利 門谷清次郎
内弟子 尾形顕治 箱田良助
保木敬蔵永誉 侍 加藤加平次
宮野善蔵 渡邊 愼
他二十一名坂部附属
竿取 佐助、甚七、長特宰領久保木右衛門 その他従僕九名(一行十九名)
一月二十五日小倉に到着。前回未了の筑前筑後路より南下し薩摩に入って屋久、種子二島を測量し、五月下旬鹿児島に帰り、それから逆に北行し、筑前北海岸に進み、八月十七日に肥前に入った。佐賀、太宰府、久留米、柳川等の街道を実測し、それより肥前有明海岸とその近くの街道を測量して、文化九年(1812)十一月二日に諫早領に入った。しかして同月六日島原に入り、寛政の雲仙岳爆発(寛政4年:1792)によって出現した小島しょ群の測量に従ったので、諫早領の測量は二、三日で簡単に片付いたものらしく、特記するような事項はない。
<諫早市史(改)> |
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| 山下淵の大なまず |
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山下淵の大なまず
諫早数多く残された伝説の一つに「山下淵の大なまず」があります。
諫早の母なる川、本明川は、北に聳える多良岳を源として一気に南に流れ下り、城山の岩崖にぶつかって淵を形成し、そこから南へと流れの方向を変えて有明海に注ぎ消えていきます。
この淵が山下淵で、今でこそ車が通れる道路がありますが、その昔この城山に高城が築かれていた頃は、切り立った岩崖が今より広くて深い淵に真っ直ぐ落ち込み、自然の要害であったと思われます。
今から420〜30年前、伊佐早(諫早)地方の領主西郷純堯の時代、この山下淵に大なまずが住んでいました。ある朝のこと、その大なまずが白い腹を水面に浮かべて死んでいたという事件が起こりました。
「西郷記」によりますと「・・翌朝山下淵瀬下に長さ二間にあまる大なまず流れ掛かりて有りしを、諸人見付けて目を驚かす・・」あります。(二間とは3m50cm余)
数日後、腹に突き刺されていた鋭い「錐」から栄田村に住む刀鍛冶の仕業?と疑われ調べられました。
栄田村の刀鍛冶というのは中村大蔵という人で、彼は備前国長船で祐定の弟子となって修行した優れた刀鍛冶でした。
ある夜、大蔵のもとに白い着物に白袴をつけた何者かが訪ねてきて、
「錐を一本だけでよいから作ってください」とお願いしました。
不審に思いたずねたところ、
「自分に仇するものがいるのでぜひ必要」と一生懸命頼みますもので、三日後を約束しました。
大蔵は鳥の舌のような鋭い錐を作って待っていますと、かの怪しいものが約束の三日後の夜にやって来ました。
注文の「錐」を渡しますと、とても満足しお礼の言葉と灰吹きの白銀一包みを差し出しました。大蔵は、
「こんな立派な品を、頂戴するわけには参らぬ」と断りましたが、
「ぜひ」と言ってききません。大蔵はますます不審に思い、
「あなたに仇なす者は何か」と訊きますと、
「私は大淵の主である。この淵には大なまずが住んでいて、自分の子供に仇して困る。この錐で大なまずを退治したい。あなたには迷惑をかけない」と約束して立ち去りました。
大蔵は不思議に思いひそかに後をつけていきますと、淵の脇の榎の木によじ登り、そこから真っ逆さまに淵に飛び込みました。
その時の様子は恐ろしいものでした。
翌日「錐」が打ち込まれた大なまずが死んで浮かんでいたのです。
「錐」を手掛かりに調べが行われ中村大蔵は捕まりました。
時の城主西郷純堯は、
「大蔵は不届き者だ。城側の淵で漁をして料理しようとしたことは許せない」と、とても怒りました。側近たちは
「これほどの大なまずに錐を立てることは普通の漁師にはできません。大蔵はただの刀鍛冶です。慎重に調べなさっては」
と申し上げましたが聞き入れられず、命だけは助けられて深海の太田尾村(高来町)に追放されました。
しかしほどなく西郷氏が没落したことから放免され、故郷の栄田村に帰参が叶いました。
数年前諫早市郷土館に「神祗血脈」という一巻が寄せられました。
これは実に大変な一巻でした。巻尾に「永禄十年丁卯五月吉日橘朝臣中村大蔵尉盛利(花印)とあるのです。この一巻こそ大蔵伝授の鍛冶の秘書に違いありません。
中村大蔵という人は実在の人だったと思われます。参考資料「西郷記」「諫江百話」
(郷土館解説シートより) |
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| 大亀の由来 |
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大亀の由来
西郷(さいごう)氏全盛の頃のこと、今の本野地区大渡野から、体長70センチ余りもある大亀二匹が献上されたことがある。鶴は千年亀は万年と、昔からめでたいものに使われている亀を贈られて、時の領主西郷尚善(ひさよし)はことのほか喜び、ちょうどその日が亡父の命日にあたっていたので、この甲羅に父母の法名を刻み込み、亀は万年も生き延びると言うから、今後は半造川の主となって、末永く西郷家を守護してくれと言って再びその大亀を川に放ってやった。
ところが尚善の孫純堯(すみたか)の代になって、東目方面から帰城の途中、半造川の土手際に大亀二匹が甲羅を干して、いとも仲睦まじく遊び戯れているのを見た。純堯は「さてさて大きい亀がいるものじゃ。やがては人間でも食べるようになろうから、今のうちに射殺してしまおう」と言って鉄砲を構えた。側近の者や船主はこれを止め、「この亀はご先祖様の御霊と関係深いものである。尚善公は西郷家の繁栄を願って末永く続くように守護してくれと云って、川に放たれたと聞き及んでいる。今もしこの亀を射殺すると云うことになれば、きっとその祟りがあるだろう」と言って諫めた。しかし日頃から強情者で知られている純堯は、「下郎共だまれ、お前たちに何がわかるか」と言葉鋭く退けて、手にした鉄砲を放った。一匹の亀は弾が命中したので、首を長く伸ばし三度舞っててまもなく死んでしまった。他の一匹の亀は儚くも射殺された連れの亀を見て、涙を流して別れを惜しみ、何時までもその場を立ち去ろうとはしなかった。
純堯はその亀もついでにと再び鉄砲を構えたが、射向が悪かったのでそのままにしておいた。そこで前に犠牲になった亀を引き上げてよくよく見ると、果たしてその甲羅に祖先の法名が刻まれていた。純堯はそれをつくづくながめて「さてさて御先祖様は大亀に化身なさったものであろうか」と言ってその亀を海中に投げ込んでしまった。運良く生き延びた方の亀は、そのとき既に海中深く身を沈めて姿は見えなかった。
当時の人々は純堯のこの殺生を見て、西郷家滅亡の前兆ではなかろうかとひそひそ話し合っていた。果たせるかな天正15(1587)年、西郷純堯はもと柳川城主であった龍造寺家晴に討ち滅ぼされ、諫早における西郷家はここに終止符をうったのである。
難を逃れた一匹の亀は、その後もずっと元の住処を懐かしんで半造川から離れなかったが、何時の頃か小野川内町の源八という者が、その亀の穴を極めようと思って飛び込んだところ、大亀は自分の甲羅に彼を乗せて浮き上がってきた。この亀は半造川工事のため、一時長田川の潟際に新しい穴をこしらえて移住していたが、工事完了を知ると再び元の古穴を慕って住み着き、時々馬のように大きい首を出して人々を驚かしていたということである。(諫江傳話:諫早史談より) |
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| 玄恕和尚と八橋検校 |
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玄恕和尚と八橋検校
寛永の頃諫早の名刹慶巌寺に玄恕(げんにょ)という名僧がいた。彼は筑紫琴の開祖諸田賢順の正当な後継者とされている。極めて純良な性格の持ち主で、師よりの信頼も大変高く、筑紫琴の秘曲、奥義を伝えられて、その当時随一の名手として全国にその名が知られていた。記録によるとその教えをうけんとするのもが、門前に列をなしたというが、彼はなかなか弟子をとろうとしなかった。
まだ慶巌寺住職となる前に(慶長年間)、江戸に出て修行したことがあった。そのとき知恩院門跡良純法親王の東下にあい、琴を演奏して親王の激賞をうけたことがある。親王は玄恕を伴って京にお帰りになり、後陽成天皇にご紹介になって、宮中で琴の演奏会をお催しになった。そのときの玄恕の妙技に深く感銘なさって「上人位、名琴、阿弥陀尊一体」を賜ったとの記録が残っている。このときの演奏は多くの参会者にも大きな感動を与え、筑紫琴の真価を中央の人達に広く認識してもらうよい機会ともなった。
玄恕和尚はその後故郷に帰ったが、推されて諫早慶巌寺第四代の住職の座についた。彼は仏道に精通した上に、前にものべたように筑紫琴の正当な継承者としても、九州一円はおろか全国的にその名を知られていたのである。
慶長十九(1614)年磐城(いわき)の国(今の福島県平市)の城下町に生まれた城秀(じょうしゅう)は、寛永十三(1636)年、二十一歳のとき京都に上り、寺尾検校(けんぎょう)に師事して山住勾当と称した。ここで盲目の身でありながら、琴や三味などを大変熱心に学んでいたが、なお一層その技を磨こうと思い、その師となる人を探し求めていた。たまたま肥前の国諫早に筑紫琴の達者な名人がいることを伝え聞き、不具の身でありながらひたすら琴を学びたい一心から千里の道も遠しとせず、苦心惨憺の末寛永十六(1639)年、二十四歳のとき、やっと諫早の慶巌寺に辿り着くことができた。
その日はすでに日没後であったためか、寺の門は固く閉ざされていて、中へ入ることはできなかった。そこで盲目の城秀は大変残念に思い、寺の周囲をぐるぐる廻ってみた。時あたかも春の夜のことで、月光はさえて寺の屋根を明るく照らし出していたが、ふと寺の方からいみじき琴の音が響いてきた。夢にさえ浮かんでいた諫早の慶巌寺できく琴の音。城秀の耳にはどんなに感じたことであろう。その音色のよさにしばし陶然としていた城秀は、ようやく我にかえることこの妙なる琴の音にあわせて、はるばる京より携えてきた三味線をひきはじめた。
一方、寺の山門の外に人ありとはつゆ知らず、琴の弾奏に夢中であった和尚も、何処からともなく流れてくる三味の音にしばし耳を傾けていたが、その音が余りにも尋常でないことに感嘆し、扉を開いて外に出てみた。するとそこには一人の行者らしい人が、三味を持って佇んでいたので、その人こそ先刻の三味の主であることを知った。如何にも故ありげな様相であることに気付いた和尚は、その行者を寺の内に招じ入れて、その語るところを詳しく聞き、その熱意のほどに感動した。すぐにも琴の指導をしてくれることを約束してもらったので、城秀はさすがに和尚の人柄に敬服し、それ以来全身全霊をもって琴の稽古に精進した。この間指導をしていただいたのは、単に琴ばかりでなく、古典文学についての教養もうけて、人間として豊かさと深みを加えることができた。城秀はかねてすぐれた音感を持っていたことと、芸道探求のための熱烈な心情と努力を傾けたことによって、意外にも早く琴の技が上達し、数年にして筑紫琴の奥義を極めることができた。
多年の宿望をようやく果たしえて安堵した城秀は、長い年月にわたって懇切に指導していただいた玄恕和尚に対して、ねんごろに謝辞をのべ、慶安の頃(1648)三十三歳で再び京に上った。六角西に居を構え、上永検校城談と称して琴の練習と作曲に磨きをかけた。豊かで鋭い感受性を持つ城秀は、遠い西の国肥前諫早で学んだ筑紫琴の調べを思い浮かべ、それを基本として苦心研究を重ねた結果、ついにあの有名な「六段の曲」その他組唄十三曲を作った。これを後生八橋流とよんでいる。その基本となった玄恕の筑紫琴というのは、前にものべたように諸田賢順によって、唐風の旋律とわが国の宮中に伝わる雅楽風の音律を、渾然一体としてまとめたもので、その奥義がその師賢順より玄恕に受け継がれていたのである。その演奏は主として宮中をはじめ、上流社会、寺院などの宗教行事に用いられ、庶民の音楽としてはかなり縁遠いものであった。最後に城秀は八橋検校と改めたが、ついに貞亨二(1685)年、六月十二日に七十二歳で多彩な一生を終わった。
昭和三十九年十一月十五日八橋検校生誕350周年を記念し、諫早三曲会によって、ゆかり深い慶巌寺の山門の前に「八橋検校六段発祥の地」と記した立派な自然石の碑が建てられた。玄恕和尚と城秀の二人が師弟一体となり、この寺で琴の道にささげた精魂を永久に物語っているかのようである。 <諫早史談より> |
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| のんのこ節と皿おどり |
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のんのこ節と皿おどり
この踊りは神代の昔からあったのだと説をなす人もあるが、秀吉の朝鮮征伐の後に有田の皿山が発達して、釉薬(うわぐすり)のかかった硬い皿が一般家庭にも使用されるようになってからとする方が確かなようである。皿踊りの発生地についても、玄界灘の孤島馬渡島とも云われるが、今日では西九州ばかりでなく遠く山口県辺りまでも拡がっているとのこと。
「芝になれたや箱根の芝に、諸国諸大名のしき芝に」の歌詞は、他の歌謡のものを借りてうたわれたる場合もあるが、のんのこ節そのものの元歌はこれである。諫早の人が遠隔の土地箱根の芝についてうたうのは、誰しも不審に思うであろうが、このことについては次のような物語が残されている。
江戸時代に徳川幕府の政策として、諸国の大名に命じて江戸まで参勤交代をさせていた。
その頃諫早の領主が参勤交代のため行列を作って、箱根の関所にさしかかった。時は真夏でかんかん照りつける午後のこと。行列は整然と道具を立て、歩調を取りながら関所の前まで来たが、関所の役人からは何の声もかからない。だから行列はそのまま歩調を取って、粛々と関所の前を通過した。ちょうどその頃関所の役人たちは、眠気が差してうとうとと夢でも見ていたのであろう。そのため行列の通過するのに気付かず、行列の最後尾の将が関所の前を通り過ぎようとする頃になって、やっと目を覚ましたのであった。
西国方面の、どこかの大名が上っているのに気が付いた関所の役人たちは、急に慌てふためき大声をあげてどなった。「天下の関所を通るのに道具を立てたままとは一体どうしたことか。上を恐れぬ不届き至極な仕業である。早々に引き返せ」と、普通の場合は道具を立てたまま通ることをしないで、前方に四十五度以上倒すのが礼儀とされている。この行列の最後尾には藩士小柳某がいた。関所の役人にとがめられたが、今更引き返すわけには行かない。たとい小藩といえども面子の問題である。
小柳は少しも慌てず騒がず片肌を脱ぎ、つかつかと歩み寄って関所の玄関に草鞋の足をふみかけ、「今更行列を引き返せとは何事か。それならなぜ最初にとがめなかったのか。掟を破るような油断は誰がした。ぜひとも引き返せというなら、職務を怠ったそこもとらこそ先ず腹を召されよ。さらばわれらの行列も元に返そうぞ」と居丈高に申し述べた。
さすがの関所役人たちも相手にこんな啖呵をきられてはたまらない。どうしても当意即妙の頓知が浮かんでこない。顔も張り裂けんばかりに怒ってみたが二の句が継げない。その間に行列はずんずん進んで見えなくなった。頃合いを見て小柳はやおら肌を入れて丁寧に平伏して次のように挨拶した。
「関所のお役人衆に大変ご無礼申し述べました。今後は十分気を付けますのでどうかお許し願い上げます」と。一応の挨拶が済むと小柳は飛ぶように走って前の行列に追いついた。ものの1キロも行くと行列はやっと駕籠を止めた。
天下広しといえども立道具のままで関所を越したのはわが諫早藩ばかりじゃ。さあここらでひと休みしようと言って路傍の芝に腰を下ろし、お茶や弁当を出し、また酒を酌み交わして旅の疲れをなおした。そのとき藩士の中から歌心のあるものが現れて、即興の歌を吟じたが、それが今に伝わっている「芝になれたや箱根の芝に・・・・」であるといわれている。
このことが起こってから、箱根の関所を通る諫早藩の者は、ここの役人たちからにらまれるようになり、大鳥毛の倒し方についても一々小言を言われた。その頃諫早の川内町に大鳥毛を十間余りも放り投げ、またそれを受け取ることの出来る剛の者がいた。関所の前に来ると大鳥毛を肩代り番として、いきなりさっと放るので、関役人は苦情を言う隙がない。その後藩主のお江戸上りには、大鳥毛係のお供をこの川内町の士にあたらせることになった。そのようなことから浮立のときに使う五段犀という道具は川内町の者のみに許されることになった。
なお芝になれたやの元歌のほかに、替え歌として次のようなものが多く歌われている。
○ ここの座敷は祝いの座敷、鶴と亀がまいあそぶ。
○ 祝い目出度の若松さまよ、枝もさかえて葉も茂る。
○ 踊れ踊れや三十まで踊れ、三十過ぎたら子が踊る。
○ あなた百までわしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで。
○ 揃うた揃うたよ踊り子が揃うた、稲の出穂よりなお揃うた。
○ 飲めや大黒歌えや恵比須、あいの酌取りゃ福の神。
○ 届け届けよ末まで届け、末はつるかめ五葉の松。
○ おどれおどれや品よくおどれ、品のよい子を嫁をやる。
<諫早史談より抜粋>
※ 江島子秋著、「長崎県の民謡巡り」によれば、ノンノコサイサイのはやし言葉は、宮崎県の「神楽せり唄」や三重県の「尾鷲節」にも使われているそうである。また、『芝になれたや』は『芝になりたや』の訛り、『のんのこ』は長崎弁で美しいの意味を『のんのか』というそうで、そこから出たのではないかとのことである。
※この伝承は、江戸時代に参勤交代制がはじまったのは、諫早藩が佐賀藩の家老となった後のことで、諫早藩として参勤交代で江戸に行き来することはなかったはずであり、あくまで伝承としてこの項にいれた。 |
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| 浮穴の沫媛 |
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浮穴の沫媛(うきあなのあわひめ)
昔は、まきむくのひしろの宮(纒向日代宮)にあめのしたしろめす、すめらみこと(=景行天皇のこと)宇佐濱の行宮に在しまして神代の直(あたい)に詔たまわく、朕諸国をめぐりてはやくことわけ治めたり。未だ朕が治(ことわけ)を被らざる異徒(けしきともがら)ありとのたまえり。神代の直奏つらく、波煙の起てる村はなお治(ことわけ)を被らずと申せり、すなわち直に勅てこの村に遣わし賜うに、土蜘蛛あり。名を浮穴沫媛(うきあなのあわひめ)という、皇命(おおみこと)に桿いて(さかいて)甚く(いたく)無礼(いやなし)。すなわちこれを誅えたり(つみなえたり)。浮穴郷という。
※ 肥前風土記抜粋(読み下し文)
浮穴郷の地を有喜町とする説はほとんど動かないようである。宇佐濱は宇土の誤りといわれ・・・・・
現在の地名「有喜」は旧名「浮亀」と書し、中世頃「宇木」と称し豪族西郷氏の居城のあった由緒の地である。この居城二の丸が地形上亀の形に似ているところから、「亀城(がめじょう)」とも称していた。・・・・・・
また、肥前風土記に現れる、天皇の征討軍に対し抵抗ないし帰順する土蜘蛛その他17人中6人は女酋である。我が国の古代は女酋に勢力があったが、それは邪馬台国女王卑弥呼のように宗教的風習を伴っていたからであろう。一面大和朝廷の統一国家に服従せず、九州における邪馬台国時代の旧政治思想に固執した浮穴のような民族も残っていたと想像される。・・・・・・ <諫早市史 第1巻「浮穴郷」より(改)>
・・・「土蜘蛛(つちぐも)」は統一国家途上にある大和朝の平定に対して頑強に抵抗した手強い士族である。クモは「力強きもの」の意であるクマの転であるとの説もあり、また土蜘蛛は国神として現されることもあり、手強い抵抗者というばかりでなく、地方土着の族といえる。肥前には古くから土着の勢力があり、朝威の伸張とともにその抵抗線となったと考えられる。・・・・・<諫早市史 第1巻「肥前国名の起源」より(改)> |
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| 雪山と逆さ松 |
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雪山(せつざん)と逆さ松(さかさまつ)
江戸時代にも文化・文政の頃を頂点として、打ち続く泰平に世も爛熟の極みに達し、尚武の気風は全く失われて、世はまさに町人の天下でした。諫早地方でもようやく俳諧が庶民の間に流行し、寺や名勝地に集ってしばしば句会が催され、翁塚(芭蕉の句碑)も建てられました。
その頃天祐寺に雪山(せつざん)という美男の青年僧が修行僧としてやってきました。世を挙げて軟弱な世相の中にあって、彼はあくまでも道心堅固、ひたすら禅林の戒律を守って修行に務め、学問に励み、大いに将来を嘱望されていました。ところが、眉目秀麗な雪山の噂は信徒の間から町中へと広まり、以来天祐寺には若い娘たちの参詣が増えたという事です。ちょうどその頃、天祐寺の山門に吸い込まれる立派な女駕籠がよく見かけられるようになりました。御領主の側室で、たまたま佐賀在勤中の御領主の代参に参詣の折、雪山の姿を一目見たときからすっかり恋の虜となっていたのです。その後何かにつけてよく駕籠を寄せるようになり、その都度雪山に法話を所望されます。とは言っても側室は仏前の読経の間も法話も上の空で、ただただ男らしい雪山の顔をうっとりと見つめているのでした。
彼女の想いは月日と共にますます募って行きました。ついには綿々と綴った手紙を送り、あるいは贈り物を使いに持たせ、手を替え品を替えて雪山の歓心を買うことに躍起になりました。しかし雪山の志操は固く、見向きもしません。いかに側室の権力を持ってしても揺るがすことは出来ませんでした。
美女の執心はついに憤怒に一変しました。
「おのれ雪山め、思い知らせてくれるわ」
女の執念の恐ろしさは春三月、御領主のお国入りの翌日に実行されました。その日、天祐寺からの帰りの駕籠の中で、髪を崩し、着物を乱した側室が玄関に駆け込むや御領主に泣きながら訴えました。
「天祐寺の若僧雪山がわたくしに言い寄り、無礼を働きましてござりまする」
御領主は激怒しました。修行僧の身でありながら最愛の側室に手を出すとはと、直ちに逮捕・打ち首が厳命されました。
愛宕山麓(今の宇都墓地)は松籟(しょうらい)が鳴り渡り、どこからともなく桜の花びらが一、二輪、春風に舞っていました。むしろの上に引き据えられた雪山は、無念やるかたなく、一文字に引き結んだ唇の端はぶるぶると震えています。身に覚えのない、しかも僧侶の身として最も恥ずべき女犯の罪をきせられ、師の御坊の嘆願も空しく、ろくに取り調べも受けられずにあたら有為の一生をここに終えるとは・・・。
「南無釈迦尼仏、私は今無実の罪でここに二十八歳の一生を終わろうとしています。これも私の罪深い業のせいでしょうか。御仏よ、私を哀れと思し召すなら、私の潔白の証を現し給え。ここに流される私の赤い血を白く変え、ここにさします松の小枝を空高く茂らせ給え」と念じながら、さっとむしり取った松の小枝を逆さまにえいっと地面に突き刺しました。
「やっ」役人の一閃に、雪山の首が落ちました。ところが見よ、真っ赤であるべき鮮血が真っ白に変わって迸り、かの松の小枝に飛びかかったのでした。しかもこの松の小枝はそこに根付いて青々と成長を続け、大きく根を張り枝を拡げ、ていていと天を指す大樹になりました。人々はこれを「雪山の逆さ松」と呼び、彼の無実を証明する証として大切に育てていきました。
それから星霜百数十年が過ぎ、さしもの大樹もついに樹齢に尽きて枯死したのが大正二(1913)年のことです。土地の人々は雪山の無実の証がなくなってしまったのを残念に思い、有志相計らって逆さ松に代わる証として、立派な雪山の追悼供養碑を建てました。諫早家に一文を草してもらい、碑面に彫りつけてあります。その漢文の碑文を読み下し文にして次に紹介することにします。
雪山和尚品位(正面)
かつて天祐寺に安居僧(あんごそう)雪山という者有り。故有りて罪の真偽を訂さずして、この地において斬罪に処す。最後に僧語りて曰く、「偽りをもって馘(くびき)らる。出血白からんか」刑せらるるや果たして白血滴々たり。刑後該地に松を植う。後生諺に雪山の松と言う。老木となりおおよそ二百年にして自然と衰えまた枯る。之によりて神仏式を修して伐採す。尋(つ)いで記念追悼の為に碑を建つとしかいう。
大正二年二月 諫 早 家
<諫江百話より>
※雪山和尚の墓の隣に、諫江八十八ケ所霊場の第一番札所が設けられています
この石仏は、諫早四面宮の荘厳寺境内に奉祀されていたもので、明治初年の神仏分離令によって同寺が廃止になったため、この地に移し祀られたものである。南北交流の要所、宇都(うづ)の地にある荘厳寺は素朴な民衆信仰の拠り所で、そこに第一番の大師像を奉祀された理由もうなずける様な気がする。
<諫江八十八ケ所霊場より==第一番札所>
→ 諫江八十八ケ所霊場 → 諫江八十八ケ所霊場一覧 |
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<諫江百話> |
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| 若杉霊神 |
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若杉霊神(わかすぎれいじん)
諫早市高城神社境内。祭神・若杉春后は1750年(寛延3)の諫早百姓一揆で、指導者として藩の圧政と闘った人物である。同年10月26日佐賀城外嘉瀬の刑場で磔刑(たくけい)に処せられた。1767年(明和4)日峯様(佐賀藩祖・鍋島直茂)百五十回忌に当たって、藩は諫早茂成(しげなり:10代領主)に対し、事件の発端となっていた減地4000石の返還を行った。2年後、封を受け継いだ諫早茂図(しげつぐ:11代領主)はその年、正林(しょうばやし)稲荷社の境内に若杉霊神の石祠(せきし)を祀り、春后の霊を慰めた。1882年(明治15)高城神社が創建されるとその境内に移され、1957年(昭和32)の諫早水害後は霊神の石祠は同社とともに現在地に祀られている。
(長崎県大百科事典:長崎新聞社より)
→「諫早の歴史編」 諫早一揆(いさはやいっき)と若杉春后(わかすぎしゅんご)
→「諫早人物伝」 若杉春后(わかすぎしゅんご) |
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<長崎県大百科事典> |
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| 諫早一揆と若杉春后 |
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諫早一揆と若杉春后(いさはやいっきとわかすぎしゅんご)
諫早一揆は寛延三(1750)年、正月から十月にかけて一万有余の武士・農民の参加をえておこされました。動きの主体は農民でしたから昔は百姓一揆といいましたが、通常の百姓一揆と異なり、諫早領主が幕閣の一部をまきこんだ御家騒動に関与した廉で所領の一部を没収されたことに端を発し、家中の士をその指導者として所領の返還を願って幕府に越訴をこころみ、また本藩に強訴をはかるなどした特異なものです。
寛延元年十一月、鍋島宗教が江戸参勤のため東海道川崎宿に到着したとき、蓮池支藩主鍋島直恒らは内密にこれを出迎え、老中酒井忠恭の内意であるとして、宗教の公儀勤役の差控えを伝えました。このため宗教は病気と称して登城せず、自分の隠居と養子の件を幕府に願い出たのです。
事態の推移に疑問を抱いた佐賀藩の重臣鍋島茂英によって事情が明らかにされました。その結果幕閣により酒井忠恭は老中を罷免され、上野国厩橋(前橋)から播磨の姫路へ転封、そして直恒の処分については宗教の心次第という裁決が下りました。
直恒は事が露顕して江戸屋敷に逼塞の身となり、まもなく寛延二年十月急死し、それ以後の沙汰はありませんでした。一方蓮池藩主に加担したとされる諫早家に対しては極めて厳しい処分が行われました。同年十二月、諫早茂行は地米四千国(石高換算一万石)を没収となり、蟄居隠居、家督を嫡子行孝に譲られ、酒井忠恭への使者を務めた横田杢左衛門も領主預けの後切腹を命じられました。
この減地処分に対して、諫早の重臣の中には抵抗をさけてこれに相当する物成四千石を納入することを佐賀本藩に願い出ようとしました。しかし、知行十五石以下の下級武士は現米納入にも反対して、寛延三年正月、家老の諫早五郎太夫に訴状を提出しました。これに対して、前領主の諫早茂行は、今家来たちが騒ぎ立てては家が滅亡することになるので、謹慎するようにと諭しました。しかし家老の三村惣左衛門は強硬派であり、儒者の若杉春后は背後にあって画策し、訴状などを起草しました。
惣百姓一万五千人ほどが勢屯(せいだもり)に集まり鯨波(ときのこえ)をあげて騒ぎ立てて、役人の制止を聞かないまま、正月以来騒動は何ヶ月も続きました。茂行の叔父の鍋島直愈(徹竜)は調停を図ろうとしましたが、うまくいきませんでした。そのうち五月になって四人の農民が日田代官所に赴き、訴状を提出しました。佐賀本藩はこれを知り、四人の百姓の逮捕と佐賀送りを命じました。これを伝え聞いた諫早領の農民は、多良に結集し、六月一日には一万三、四千人にもなり、佐賀へ訴えに行こうとしました。諫早からは三村惣左衛門らが説得にかけつけ、かろうじて惣百姓を引き取らせたのです。
諫早家は佐賀藩と百姓一揆の間に立ち、明確な態度を打ち出しかねていましたが、このとき事態収拾に乗り出したのが鍋島直愈で、諫早領の地米四千石は三ヶ年は佐賀本藩の蔵入とするが、その後は諫早家へ還付するということで事態の収拾を図ろうとしました。これに対し、諫早家の重臣はこれを諒承するとしましたが、農民は拒否しました。こうして直愈の調停は失敗に終わりました。
その後、諫早行孝に対し、諫早に帰って一揆を鎮圧するよう佐賀から命令が出され、佐賀藩からも多久長門が諫早に出動することとなりました。多久長門は八百名の兵を率いて諫早領に入り、四千石の知行地を佐賀に引き渡すことを農民に承服させました。九月に入って一揆の扇動者と考えられていた若杉春后を捕まえました。
そして佐賀への「上地」とされた湯江・犬木・小江・宇良・金崎・遠竹・田古里・大浦・唐比・三町分(江の浦村内)・田結・大草・久山・喜々津の十四か村を佐賀藩に引き渡しました。
十月二十六日、領主諫早行孝は蟄居を命ぜられ、鍋島直愈は呵(しかり)、三村惣左衛門は生害獄門、家老諫早五郎太夫は切腹、若杉春后は磔、これらを含めて五十七人の武士、農民が厳しい処分を受けました。
若杉春后はこの諫早一揆の指導者として徒党を勧め、訴状を書いたという廉で十月二十六日佐賀城外嘉瀬の刑場で磔刑に処せられ、ときに七十三歳でした。
明和四(1767)年六月、佐賀藩祖鍋島直茂の百五十年忌に当たって、藩は諫早茂成に対し、上地四千石を返還しました。二年後、その跡を受け継いだ諫早茂図は明和六年、正林稲荷社の境内に若杉霊神の石祠を建立し、春后の霊を慰めました。いまは高城神社の境内に祀られています。
<諫江百話より>
→「名所旧跡編」 若杉霊神(わかすぎれいじん)
→「諫早人物伝」 若杉春后(わかすぎしゅんご) |
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<諫江百話> |
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| 浮立の起源 |
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浮立(ふりゅう)の起源
諫早の浮立は、佐賀県・福岡県等で演ずる物と少しく異なるものもあるが、九州各地にあるすべてがその起源を一にするものではないかと思われる。ある者は鎌倉時代に起こった田楽の変化したものであろうと言い、ある者は里神楽の遺風だろうと言い、徳川時代に入ってある国学者は、肥前に行って浮立というものを見たので『・・・里かぐら、月の夜かけて鼓うつなり』と詠じ、その演奏が一糸乱れず実に面白いと書き残している。しかし田楽や猿楽に先立って、浮立に似たものがあったのではなかろうか。筑後風土記には破牟椰舞という舞曲が現れている。
神功皇后、欲討田油津媛、而自橿日宮南到八女県、航海遷干鷹尾宮、時人歓迎献海鯽魚、奏舞曲、後世号其曲曰破牟椰舞也云々。
この神功皇后歓迎のハンヤ舞が肥後も肥前も伝承され、それが浮立になったものではないだろうか。神功皇后の時代には太鼓はあったであろうが、おそらく鉦は出来ていなかったことと思われるから、ハンヤ舞は太鼓と手振りだけで笛を使ったかどうかも疑わしい。テンヤハンヤと囃しながら、不得要領でいい加減に踊ったのであろう。だから不得要領で日を送るものをテンヤハンヤで日を暮らすといった言葉も生まれた事と思われる。諫早地方にもハンヤ節という古い民謡があるが、これも浮立のあるところにハンヤ(ハイヤ節と呼ぶ地方もある)が謡われる。破牟椰舞に関係あるものかどうかを明らかにすることはできない。ハンヤ舞を源流として数百年間、おそらく農漁村の唯一の娯楽として伝えられ、神事の場合はこれを奉納舞としたのが、後代になり音色良き鉦が加わり、明笛が取り入れられて今日の浮立となり、更に徳川時代に入って諸物資が豊かとなり、浮立の衣装が出来、多くの踊りも加えられて今日の諫早浮立のような華美なものとなってきたのであろう。
<諫早市史第三巻> |
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| 平松神社 |
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平松神社(ひらまつじんじゃ)
藩北諫早村下本明平松に鎮座の諫早最古の神社で、社格は村社、祭神は伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)である。創建は和銅元年八月で、小祠を建立し、産土神(ウブスナガミ)として鎮祭したことに始まる。古老の伝説によればこの地は諫早の初めに開墾した土地で、民家わずかに数戸の時に本社を創立し、漸次人口の繁殖に伴い、社地を拡げ社殿を増築した。旧記録は発見されないが、破損の石片にも公証となるべきものがあり、また諫早神社の社家馬場氏の祖先は本社の社家から出たとも言われる。付近から古墳や鏃も出てくると言われ、古い集落を証するものがあり、神社の後方の丘陵は城の跡だと伝えられている。慶長年間社地を無税とする恩典を与えられ、現在の境内官有地がこれである。
明治七年五月村社に列せられ、同二月正殿、神楽殿、拝殿を再建し、更に明治四十一年四月、金参千円を投じて正殿、神楽殿、拝殿とも改築した。この改築で拝殿は小さくなった。同年二月正遷宮式を執行し、翌創立一千二百年祭を執行した。本社は鎮座以来維新に至るまで専務の神官を常置せず、諫早神社旧神官が兼務してきたが、指定神社となってから兼務社掌一人奉仕することになった。祭典は九月二十九日の礼祭と祈年祭、新嘗祭である。社殿、正殿は六尺五寸に二間、神楽殿は一間半に二間、拝殿は四間半に三間である。いずれも瓦葺である。
氏子は約二百戸、財産は動産不動産とも若干を有する。 <諫早市史第三巻> |
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<諫早市史> |
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| 熊野神社(破籠井)と百手祭り |
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熊野神社(破籠井:わりごい)と百手(ももて)祭り
真津山地区破籠井町の熊野神社は、社格は村社、祭神は熊野権現である。往昔、平家の将讃岐中将伊賀倉左近平時実の一族主従八人は、文治四年十月破籠井に落ちてきて定住することになった。そのところが今の讃州谷(さんしゅうだに)である。建仁二年四月に至り、時実は平家の守護神である熊野権現を現在の山上野林に安置し産土神として鎮祭した。降って元禄九年三月十四日、神祗官領長正三位左兵衛督部兼連から吉谷右近能成、神道裁許状を受け、茲来十数代吉谷弥門に至るまで神官として存続したが、明治三十九年吉谷弥門の死去により藤本喜代太が社掌となった。
初め建仁二年四月熊野権現を野林に安置、鎮祭し、元文二年潤十一月現今の地、野林山麓に移転し神殿、恐殿を新築した。寛政十年三月十九日神殿と拝殿を再建し、明治七年五月五日村社に列せられ同四十三年四月十九日七百年祭を執行し、境内に記念碑を建設した。毎年二月一日百年祭と称して悪魔払いをなし、九月十九日新穀祭を執行する。
<諫早市史第三巻>
二月一日は破籠井の熊野神社の百手祭(ももてまつり)で、古い神事の伝統を今に残しているといわれます。御館山の藤本宮司の手によって神事が始まり、お祝詞奏上の後的射の式に入ります。俗称ブック(イヌビワ)の細木の弓に女竹の矢をつがえて、「神代よりちかいまさしきみことにて、雲井に近き桃の木の里」と神歌を高らかに歌い上げ、エイエイとかけ声を上げて十二本の矢を、正面の鬼と書いた的めがけて射かけます。その矢の通り具合で五穀豊穣を占います。さらに厄払いの人たちを始め村人たちに、天狗に似た鬼の面を頭上にかざして無病息災のお祓いをするのです。
<諫江百話>
(注)
毎年2月1日のローカルニュースで、百手祭りの模様が放映されるのでご存じの方も多いと思います。北バイパスを大村方面へ向かって破籠井交差点から左に入り、下破籠井バス停を斜め左へ進んでいきます。右側に阿蘇宮神社を見ながら道なりに下って開けた場所で川にぶつかります。金網の取水場を過ぎたら橋を渡って細い道路(簡易舗装されています)を300mほど(細い道で車のすれ違いはできません)進んだところの山あいに鳥居があり、階段を登れば熊野神社です。鳥居前は広くなっていて駐車できます。 |
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<諫早市史、諫江百話> |
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| さやんごぜんと伊東鼎之介 |
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さやんごぜんの伊東鼎之介(いとうていのすけ)の墓
さやんごぜんは道祖の元(どうそのもと)や賽御前(さいごぜん)といって、道祖神や賽の神を祀った所です。集落の入り口にあって、外からの邪気を追い払って入れないという道教の信仰に基づくものです。日本では猿田彦を祀ったり、庚申塔(こうしんとう)を建てたり、陰陽神を祀ったりしています。長崎街道の小船越入り口にあり、近くに一里塚がありました。そこに並べてある諸神諸仏の中に伊東鼎之介の墓があります。
征韓論に破れて佐賀に帰った江藤新平は、いきりたつ佐賀征韓党に押されて憂国党を率いる島義勇と謀り、明治政府への反乱軍を興します。明治七(1874)年二月のことで「佐賀の乱」といいます。これに対し諫早では、政府に付こうか、旧佐賀藩のよしみで江藤に味方するかで大いに紛糾していました。それを案じた長崎県庁では、密偵を送ったりしていました。政府は熊本の鎮台から征討軍を差し向け、烈しい攻防が続きました。
長崎で編成された諫早・大村の志願士族による県庁軍が佐賀へ向かう途中、江藤の援軍募集の密偵「伊東鼎之介」を捕らえました。長崎へ護送することになった中嶋藤太郎ほか五人の若者たちと、さやんごぜんで斬り合いになり、遂に鼎之介は斬り殺されてしまいました。五人は鼎之介の首を県庁に届けましたので、諫早は佐賀に味方しないものであることを認められたといいます。
鼎之介の遺骸はこの最期の地に丁寧に葬られました。その墓石には「佐賀士族行年廿三歳 伊東鼎之介之墓 明治七戌年二月廿二日」と刻んであります。
かつて久山茶屋の住人であった森茂氏の話ですが、「お祖母ちゃんがいつもこう言って悔やんでいた。あの時私が止めていれば死なんで済んだのに、茶屋の回りをぐるぐる回って、どうしようかと随分悩んでいた様子だった。あんとき、出ていかんで隠れておれと言えばよかった。といつも悔やんでいて、二月の命日が来ると花を持って必ずお参りに行っていた。私もよくついていったものだ」とのことでした。
自分の運命を予感していたのでしょうか。それを振り切って名乗って出た、余程の使命感があったものと思われます。彼は諫早の早田快太に会うつもりでした。早田快太といえば、諫早の主席家老として諫早の明治維新をリードした中心人物で、のちに初代北高来郡長を務めた人です。その快太に頼って何とか援軍を確保したいと思ったのでしょう。しかし志成らずして二十三歳の若さで諫早忠節のあかしにされてしまったのは誠に哀れなものでした。動乱の歴史の犠牲者を手厚く供養し続けたいものです。
<諫早を歩く>
→佐賀の乱と伊東鼎之介(いとうていのすけ)
小船越の総合農林試験場から東へ、東大川にかかる佐代姫橋を渡り右折して80mほど行くと、三叉路の農業大学校飛雲寮の前に「旧長崎街道さやんごぜん」と記された石柱が建っています。その奥、植木に囲まれたところに墓石群があり、奥から2番目が伊東鼎之介の墓です。道路脇に少しですが駐車スペースがあります。 |
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<諫早を歩く> |
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| 佐賀の乱と伊東鼎之介 |
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佐賀の乱と伊東鼎之介(いとうていのすけ)
明治政府の要人だった江藤新平は、征韓論を主張して破れましたので、西郷隆盛らとともに政府を辞職して佐賀に帰りました。
故郷で政府を批判していた江藤新平は島義勇らと心を合わせて、政府を倒そうと明治七年二月に「佐賀の乱」を起こしました。政府は熊本鎮台から征討軍を差し向けたため、浪士と農民の混成ではとても支えきれず、長崎の旧深堀領と諫早に応援を頼もうと、腹心の伊東鼎之介を長崎へ走らせました。
密命を受けて深堀に潜入した伊東は、浪士の間を走り回って支援の約束を得ましたので、次は諫早の家老職を継ぐ予定であった早田快太に嘆願して援軍を得ようと諫早へ急ぎました。
ちょうどその時諫早では、政府に付こうか、佐賀藩への義理から江藤に味方しようかと天祐寺で三日間も激論をして佐賀への情実論と大義名分を唱える一派とが対立したまま大いに紛糾したといいます。
そこで、皇室を奉戴する政府に刃向かえば朝敵になると信じる五人組が決起して、伊東鼎之介を出迎えに行きました。五人組とは諫早では上級家臣だった中嶋藤太郎を頭に、西山隆太、木原頼三、西村斐太、馬場寛蔵らの青年剣士たちでした。
主席家老の嫡子だった早田快太は思慮深い人でしたが、人情に厚い人でもありました。密使の伊東鼎之介は早田の人情にすがって江藤に味方させようと目論んで来たのですが、早田の人情に弱い気質を危ぶむ五人組が機先を制したわけです。
彼らは長崎街道を貝津まで来たとき、長崎から来る伊東鼎之介に出逢いましたので、丁重に迎えて貝津の茶屋で一服したそうです。伊東が早田快太に嘆願すれば早田快太が同情するのは目に見えているので、伊東を暗殺して早田に逢わせないよう謀ったのでしょう。
茶屋を出て伊東と雑談しながら歩く五人組は、道祖神橋を渡るや否や、一斉に斬りかかって伊東の首を打ち落としました。伊東は二十三歳の青年剣士でしたが、まさかの不意打ちで戦う間もなく斬り伏せられたのです。
五人組は伊東の首を布に包んで、長崎県庁へ出頭し、諫早が佐賀の乱に与しない証です、と伊東鼎之介の首を差し出しました。
諫早は佐賀に味方して反乱するのではないかと疑っていた県の役人は生首を見て肝をつぶし、諫早の真意はわかったので持ち帰れ、と受け取りませんので、五人組は首を持って帰って道祖神橋際の絶命した場所に葬りましたが、恨んで討った相手ではありませんので、丁重に葬って冥福を祈りました。その墓は、農林試験場の県立農業大学校前に建っています。
墓碑には正面に佐賀県士族行年二十三歳、明治七戊年二月二十二日、伊東鼎之介之墓と刻んであります。諫早は佐賀の乱とは無関係と思われがちですが、江藤新平の密使伊東鼎之介暗殺を通じても関わりがあったわけです。
<諫江百話より>
→さやんごぜんの伊東鼎之介の墓 |
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| 大和朝廷との結びつき |
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大和朝廷(やまとちょうてい)との結びつき
四世紀に入って大和朝廷が成立し、次々に倭国内の諸族を従えて、四世紀半ばにはほぼ国土統一に成功し、勢いに乗って朝鮮半島に勢力を延ばします。五世紀には倭の五王が次々に中国に使いを送って、自己の立場の強化を図ります。
ところが六世紀に入っても完全には全国制覇できていなかったことを示す大事件が北九州で起こります。筑紫の君磐井(いわい)が新羅攻めを拒み、大和朝廷に反旗を翻します。朝廷は大伴金村・物部あら鹿比を将として、磐井討伐軍を差し向け、筑・火(肥)・豊三国の兵を率いる磐井と大激戦を展開します。諫早地方の豪族たちも磐井軍に参加したと思われますが、磐井は朝廷軍により平定され、六世紀後半には北九州一帯も強力な朝廷支配が浸透していきます。
この頃の諫早の豪族たちは、小野古墳・木秀(きしゅう)古墳・尾首鬼塚古墳などの小規模古墳を残しました。小野古墳には84センチの鉄の長剣を抱いた豪族が眠っており、市史記述によると木秀古墳には、勾玉・管玉・小玉・金管・馬具・須恵器という華々しい出土品がありました。かなりの豪族と考えられ、あるいは渡来人の長であったかもしれません。
ところが563年、任那日本府滅亡以来、七世紀に入って聖徳太子の摂政から645年の大化改新と国造りが進められますが、朝鮮半島における倭軍は後退に後退を重ね、遂に663年、白村江(はくすきのえ)の敗戦によって完全に敗退します。唐・新羅の連合軍の襲来に備え、北九州を中心に山城を築き、防人(さきもり)を配置し、非常通報のための「烽火台」(のろしだい)を築きました。その一つが有喜普賢岳の烽火台です。烽長二人、烽子四人を配置し、野母の肥の御崎や口之津早崎の烽火山からの烟を引き継ぎました。従って当時の橘湾や有喜は国防の第一線であったわけです。
八世紀に入りますと、情勢がやっと落ち着いてきます。国造りの総仕上げとして710年大宝律令を制定し、710年平城遷都が行われます。遣唐使と仏教文化の華々しい奈良時代が展開されていきます。この頃になると諫早地方にも強力な中央権力がおよび、公地公民による条里(じょうり)制が全農地に実施されます。その口分田の名残が小野の金比羅岳地先に発見されました。小野条里といわれる口分田(くぶんでん)跡です。さらに船越の駅(うまや)が置かれました。役人の通行や租・庸・調の徴収路として、古代官道が九州では太宰府を中心に放射状に延びていました。駅の入口には縦長の巨石を建て、それを立石と言いましたので、地名立石は駅に関係があると言われます。古代官道は平地ではほぼ直線上に延びており、広いところは幅数十メートルもあり、両側に側溝を持つ立派な物でした。船越・山田・野鳥と島原半島へ延びていて、「小路」とされていましたので、「駅馬五匹」が準備されていたわけです。このようにして諫早地方も中央集権のしくみに組み込まれていったわけです。さてその古代官道がどこをどう通っていたのか、船越駅がどこにあったかはまだ確定されてはいません。
<諫早を歩く>より
→きしゅうこふん(木秀古墳) |
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| 伊佐早の地名 |
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伊佐早の地名(いさはやのちめい:肥前の国伊佐早庄)
大分県の宇佐神宮に残された、鎌倉時代初頭の建久八年(1197)に書かれた「八幡宇佐宮御神領大鏡」という巻物の中に伊佐早の地名が初めて登場します。
「肥前国の三根西郷下毛薗と伊佐早村を、本領主藤井宮時が宇佐神宮の検校僧円昭に譲った。円昭はこれを大宮司公基に譲り、さらに次の大宮司職を公通が継いで諸手続を整えた物である。だから宇佐神宮領だ」と書いてあります。上に細かな注記があるのを読んでみると、宮時は領主の権限を全て差し上げたのではなく、名前を宇佐神宮の荘園にしてもらい、その保護によって自分の領地安全を図るという、寄進荘園であることがわかります。また宮時・宮行・宮貞と続く藤井氏は染の貫首(そめのかんじゅ)とありますので、伊佐早在住の土豪ではなく、神宮職員衣服の染師の長ですから宇佐にいたものと思われます。
公基は保安四年(1123)に大宮司になっていますから、少なくともそれ以降寄進が行われたと見るべきです。公通は21年後に大宮司を継ぎ、41年間務めますが、源平合戦の折は平家に味方し、安徳天皇を一時匿ったこともあります。
ところが鎌倉時代になると、仁和寺仏母院御領になっています。いつ頃、どんな事件があってそうなったのかは全くわかっていません。仏母院御領としての最も古い記述は正和三年(1314)の「深江文書」です。仁和寺仏母院御領肥前国伊佐早の庄雑掌が書いた物に、船越村惣領主船越次郎家通の添状を付けて幕府に提出された物で、「船越村地頭職の安富左近将監頼泰が、年々納めるべき年貢等を滞らせているので、文永三年(1266)の実検帳を守って正しく納めるよう。」訴えたものです。ですから、文永三年には仏母院領になっていたと言えます。
仁和寺は平安初期に光孝天皇の勅願で創立され、代々法親王が入られるしきたりになった格式高い寺です。仏母院も鳥羽上皇によって建立され、天養元年(1144)に落慶供養が行われています。従って1144年から1266年までの間に仏母院領になったと言えます。この文書で仁和寺は僧侶の雑掌を代官として派遣して伊佐早の庄の管理を行わせたこと、船越氏は船越村の惣領主であると共に、荘官の役目もしていたことなどがわかります。
一方の安富頼泰は、高来郡に地頭として下向してきた関東御家人で、南高の深江村に居住しました。元寇の勲功によって船越村の地頭職を手に入れています。この事件は荘園内の土地や年貢が地頭によって次第に蚕食されていく様子をよく表しています。
この頃伊佐早庄の範囲は大きく拡がっていました。伊佐早庄内遠竹村、伊佐早庄内長野村、伊佐早の庄内肥の御崎、その内樺島とあるのを見てもわかりますように、諫早・北高全地域を含み、さらに矢上・網場から野母までの橘湾沿岸を含んでいました。
ところが南北朝の争乱が続いていた間に、荘園勢力は完全に消え去り、激しい領主交代がおこなわれて行きます。
<諫早を歩く>より |
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| 大悲観世音像と高城公園 |
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大悲観世音像(だいひかんぜおんぞう)と高城公園(たかしろこうえん)
昭和32年7月25日の大洪水は一瞬にして539名(平成17年3月合併後の新諫早市としては630名)の命を奪い去った。諫早市では犠牲者の霊を慰め冥福を祈るため水害5周年の昭和37年7月25日、本明川のほとり高城公園内にこの大悲観世音像を建立した。日展評議員、故横江嘉純先生の遺作である。鋳造は東京山内春造氏による。高さは台座を併せて約8m。(観光パンフレット、水害記念誌より)
平成19年4月、50周年を前に高城公園を再整備し、桜やつつじを植えるとともに園路をつくりかえ、この像を南側に10m移動、東向きから本明川を望むように北向きに変更した。写真は移転後の観音像 → 諫早大水害のあらまし |
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<観光パンフレット、水害記念誌> |
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| 諫早大水害のあらまし |
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諫早大水害のあらまし
本明川は標高千五十七メートルの多良岳に源を発し、諫早市のほぼ中心を東に貫流して有明海に注ぐ全長二十二キロの小河川である。
平常の水量は少ないが、一度大雨に遭うと忽ち氾濫を起こし、この川と共に生活してきた祖先たちも、しばしば洪水の惨禍に悩まされた事実が歴史に見られる。
「大水が出ないと梅雨(ながせ)は半夏(はげ)ん」と、年に一回は洪水に遭うことを宿命的なのものと地区民は観念しているのであるが、然し昭和三十二年七月二十五日、諫早市を中心に長崎県下を襲った大水害は、わが諫早市にとって未曾有の大惨事であった。
これは梅雨末期における局地的な集中豪雨で、一昼夜に七百ミリから八百ミリを超える、驚異的な雨量であった。
昭和三十一年一ヶ月の諫早の平坦部の雨量は千八百ミリであるから、一年間の雨量の約半分が僅か一昼夜に降ったのである。
加うるに運命の時刻午後十時二十分前後は、三時間で三百ミリ以上の降水量を記録し、僅か十分間で約二メートルの水位の急上昇をみたのであった。当夜、午後八時頃には一時期雨も止み、水も引き、そのまま無事に治まるかと思われたにも拘わらず、再び沛然と降り出した雨は、盆を覆したようなすさまじさで、遂に悲劇的な結果を来してしまったのである。
特に諫早市が超豪雨に見舞われたのは、南西方面から突入した「湿舌」の先端が諫早市上空にあって、ここで雷雲が最盛段階に達した七月二十五日午後九時から二十六日午前一時の間であったといわれている。
朝から降り続ける豪雨に、市は本明川の氾濫に備えて、二十五日十四時諫早市水防本部を設置して対策を講じた。この頃既に東部厚生町(現在の幸町)は床下浸水し、十五時には本明川の水量は警戒水位を遙かに突破して三メートル五十を示すに至り、非常サイレンを吹鳴して危険を市民に知らせた。十八時五十分には二回目、十九時三十分の三回目のサイレンが鳴らされた直後、荒れ狂う濁流のために電灯は消え、一切の通信連絡は途絶した。
水魔は多良岳の山肌至る所を剥ぎ取り、岩石を覆し、大木を押し倒し、上流本野地区の河畔の人家を呑み、田も畑も一面の濁流と化した。勢いを加えた奔流は諫早駅前永昌東町一帯を襲い、多くの人命と家を奪い、四面橋東側上方の堤防を押し切って天満町を突ききり、直線コースをとって高城神社裏の屈曲部、右岸堤防を破壊、更に下方眼鏡橋付近一帯を破壊して市街地に突入した。家が流れる。人が呑まれる。流れる屋根に乗って悲鳴叫喚する人の群れに絶え間ない雷光と豪雨は襲いかかり、この世ながらの生き地獄の姿を呈し、自然の猛威の前に人間の無力、はかなさをまざまざと感じさせられた。
死者行方不明の数は実に五百三十九名という多数にのぼる。
一旦の災禍に故なく尊い命を奪われた人々のいまわの痛憤、遺族の方々の胸奥を推察して、ただただ御霊安らかれとご冥福を祈る次第である。
罹災の様相は一様に深刻惨憺という以外に表す言葉もないほどであったが、中には一家全滅という悲惨な家庭もあり、幼児は九死に一生を得て、両親は死亡されるという気の毒な罹災者もある。十二時間も濁流と豪雨の中に漂い流されつつ、ただ一本の流木にすがり、不屈の精神力を以て命を救われた健気な少女もあった。
恐怖の一夜が明けた諫早市は、昨日に変わる悲惨な変貌のしかたで平和な緑の町は悪夢のように、死と泥と破壊された家々と、足の踏み場もない夥しい流木、瓦礫の山また山で眼を覆うほどに徹底的にいためつくされていた。
死亡者の年齢性別調べ
年 齢 別 男性 女性 計
1歳より6歳まで 59 32 91
7 〜 18 73 93 166
19〜 60 64 161 225
60歳以上 25 32 57
計 221 318 539
町内別死亡者数
町 名 死亡者数
天 満 町 120
永 昌 町 102
本 町 54
高 城 町 43
八 天 町 36
八 坂 町 27
泉 町 17
本 明 町 17
東小路町 16
湯野尾町 12
本 野 町 8
宇 都 町 7
旭 町 7
城 見 町 6
栄 田 町 6
原 口 町 4
宗 方 町 3
大 場 町 3
西小路町 2
栄 町 2
厚 生 町 2
富 川 町 2
上大渡野町 2
下大渡野町 2
船 越 町 1
上 野 町 1
東 本 町 1
福 田 町 1
金 谷 町 1
目 代 町 1
黒 崎 町 1
長田第二町 1
正尾第二町 1
旅 行 者 30
計 539
<20周年復興記念誌 より> |
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| 永昌八天霊場(八天神社) |
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永昌八天霊場(えいしょうはってんれいじょう)
永昌の北外れの丘の上には八天狗の石祠を中心に諸神諸仏が集められ、一大霊場を形成しています。他にも元禄八年(1695)金比羅山頂の巨岩に八天狗と刻んで祀ったのを初めとして、土師野尾の八天岳、もと岡町と言った八天町公園など、江戸時代に諫早各地に祀られています。
諫早地方の八天狗信仰は、塩田の八天神社に基づきます。伊佐早家西郷家の家老山崎丹後守は塩田八天社の出身であったことなどから、戦国時代から塩田と諫早は深い繋がりがあったと言えます。祭神は迦具土神<かぐつちのかみ>(火産霊神<ほむすびのかみ>ともいいます)で、天照大神の母である伊弉冉尊<いざなみのみこと>が最後に産んだ子ですが、激しい火の神であったため、尊はこの子を産む時に全身に大やけどを負い亡くなったと言われています。その後、防火の神様として各地で祀られるようになりました。諫早でも享保三年(1718)岡町の大火を経験していますが、木と竹と紙と藁で出来ている日本の家は、火が出るとひとたまりもなく、防火は人々の大きな願いであったのです。
さて、永昌の八天社は文化三年(1806)の奉斎ですから、今から約二百年前、諫早十一代茂図(しげつぐ)公の時代です。文化元年にはレザノフのロシア船が長崎に来て長崎警護に駆けつけたり、本明川の大洪水で橋が全部流されたりしました。翌四年には領内に砲台五座を設けるなど、物情騒然とした時代でした。単に火難消除だけでなく、領内平穏を祈って建立したに違いありません。
この霊場の中でひときわ目を惹くのは、広場に整然と立ち並んでいる三十三所観音です。これはもと永昌代官所の東下手にあった、約百坪ほどの観音屋敷に建っていたもので、区画整理によってここに移したものです。文化十四年(1817)建立で、最初の観音様には「第一番那智山紀ノ国如意輪堂 施主前天祐寺住職大謙和尚」と銘があります。願主は豊前の国の台岳という人で、永昌宿の有力者島田瀬兵衛らを中心として多くの施主を募って建立しています。
この高台から、本明・目代・天満町方面の多良山麓一帯、さらに手前の栄田の丘などに挟まれた本明川流域地帯が一望できますが、ここはかって平安末期の伊佐早村で、地主藤井宮時によって宇佐神宮に寄進された荘園の中心地です。改めて千年の歴史を辿る想いがします。
<諫早を歩く>より |
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<諫早を歩く> |
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| 諫江八十八ケ所霊場 |
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諫江八十八ヶ所(かんこうはちじゅうはちかしょ)霊場成立と展開
はじめに
旧諫早市内には17ヶ所もの多くの寺院が現存する。これは江戸時代の領主の仏教保護政策からと考えられる。
さらには、領主の盛んな信仰を反映した多種類の石仏、石造物も多く残され、これらを通して当時の仏教文化並びに民間信仰を知る上で、貴重な文化遺産となっている。
諫早地方の民間信仰の代表例として弘法信仰と観音信仰を挙げることができるが、これらは町の片隅、神社寺院の境内、観音堂や弘法堂、田舎の路傍、あるいは弘法山と称する小粒の山などに多く祀られている。すなわち弘法信仰と観音信仰は、それほどまでに庶民大衆の生活に密着した親しみやすい信仰の対象であったのであろう。
江戸時代からこの二大庶民信仰は時代の推移と共に各種に変化したことは考えられるが、その石仏台座等の紀銘を通して、これらの信仰の盛衰は元禄以前から萌芽成長し、化成年間で揺籃期を迎え、幕末頃に下降線を辿ったものと推考される。しかし、その習俗は根強く現在もなお残り受け継がれ「弘法さん」「観音さん」の愛称で親しまれ、その命脈は息づいている。
( 略 )
弘法石像の規模とその所見
・・・・・・この霊場は四国八十八ケ所霊場をもじって勧請されたことは明白であり、1番から88番までの札番号・寺院名は四国八十八ケ所霊場のそれとまったく同一で願主の意図は諫早私領一円にくまなく同霊場をもじって設定されたものと・・・・・
総じて石の芸術品とも称される如くこの尊像の石彫技術等からして当時の肥前諫早石工の技術水準の高さを垣間見ることができる。
霊場設置の願主とその財源と経費
昭和44年の調査開始より最近まで同霊場の設置の目的および願主など不明であったが最近にいたり古文書研究会による郷土関係史料の研究で諫早(藩)の公式記録「諫早日記」により、願主は哲仙院で4年越しの発願であったことが判明した。
注)哲仙院 諫早家第11代茂図(しげつぐ)の子「敬輝」の室、佐賀本藩8代治茂の姫で天保11年7月23日没
敬輝 文化6年2月2日没 37歳
哲仙院は四国八十八ケ所霊場になぞらえて諫早私領中一円に八十八体の弘法大師石像を建立し領内安穏、子孫繁栄と夫の菩提供養の悲願を込めたものであろう。
( 略 )
(諫早史談会「諫江八十八ケ所探訪記」より) |
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| 諫早地方の統一 |
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諫早地方の統一(いさはやちほうのとういつ)
今から五百数十年ほど前、戦国時代の始めのことです。文明六年(1474)島原半島を支配した有馬貴純が大村を攻めた時に、伊佐早の領主西郷尚善(さいごうひさよし)が先手を務めて萱瀬に攻め入ったことが大村の記録に残っています。その後西郷氏は一貫して有馬の武将として肥前の野を転戦しています。
それより八十年ほど前までの南北朝時代には、諫早は二つの勢力に別れていました。埋津川(うめづがわ)を境にして南は宇木城を根拠地にした西郷氏が南朝方に付き、北には船越城に拠る伊佐早氏が北朝方に付いて対立していました。その後、西郷氏がこの地方を統一し、伊佐早氏は上杉氏を頼って越後に移っていきました。当時どんな事件があったのか記録には残っていません。新潟県や米沢市に伊佐早氏の御子孫がいらっしゃいます。
その統一者が西郷尚善と考えられています。彼の統一によって「宇木んもんだ」「小野んもんだ」「俺は長田んもんだ」と言うように、部落共同体意識しかなかった人々に『諫早んもん』という大きな地域共同体意識が形成されたわけです。
尚善は始め船越城にいたのですが、新しく今の諫早公園の地に高城を築いて本城とし、本明川をはさんだ対岸に正林城(しょうばやしじょう)を築いて二の丸としました。さらに領内に十の支城を築いて守りを固めたと諫早市史は述べていますが、実際はもっと砦は多かったものと思われます。その後百年間、三代目が龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に囲まれるまで一度も外敵の侵入を許しませんでした。十の支城の中には佐賀県杵島郡の長島城があります。有馬氏の先鋒で攻め入ったところ、守備を任された城の一つと考えられますが、その手前の藤津郡方面には大きく勢力を伸ばしていたと見ることが出来ます。
尚善は単に武力に秀でた武将と言うだけではありませんでした。大渡野台地の開墾や真崎の入江の干拓、さらには田原の堤の構築、大渡野用水の掘削など、優れた農業土木の技術を持って大いに殖産興業を進めたのでした。さらに四面宮の整備、阿蘇神社の勧請、天祐寺の創建など、民心の安定にも努めました。中でも特筆すべきは、晩年京都に上って当時最高の文化人であった三条西実隆公に師事して歌を学んだことです。在京連歌師たちと共に、連歌の会に出席し、あるいは自ら主催しています。まさに尚善自身が一流の文化人であったわけです。
<諫早を歩く>より |
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| 有喜の白髭神社 |
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有喜の白髭神社(うきのしらひげじんじゃ)
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